ジグ日記 | 出版舎ジグ

5月5日、モトムさんと長谷川監督と、菊次郎さんと。上映会 ご報告

5月5日、世田谷区の宮坂区民センターで、「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」(2012年製作、114分。配給:ビターズ・エンド、監督:長谷川三郎 の上映会をささやかに行いました。上映会の趣旨は、主催者の上田要(モトム)さんがチラシに書いているとおりです。モトムさんと菊次郎さんのご縁も、チラシの裏面に掲載しています。

参加者は、この映画を初めて見る人も、以前モトムさんと一緒に上映会を企画したことのある人も。このささやかな上映会に、長谷川三郎監督も足を運んでくださり、上映後のトークにくわわってくださいました。みなさんの言葉を抜粋してご報告とします。

長谷川三郎監督のトークより ①

映画の中でも紹介している広島での取材の際に、菊次郎さんから、彼の取材の原点である被爆者の中村杉松さんのお墓にも⾏こう、ということになり、ご一緒した時、菊次郎さんが中村さんの墓の前で突然に慟哭されて、「ごめんね」と――。そのときの菊次郎さんの姿が、あまりに強烈でした。

実は今回の映画の取材をするまでは、あんまり詳しくは菊次郎さんのことは知らなかったんです。僕はもともと、テレビのドキュメンタリーを作ってきた人間で、ある時、広島のテレビ局の⽅から、「瀬戸内海の町で、福島菊次郎さんという伝説的な報道写真家が暮らしていて、もう90近い年齢で、胃癌も煩って満⾝創痍。ちゃんとお話を聞けるのは最後にチャンスになるかもしれない」というお⼿紙をいただきました。

一緒に仕事をしているドキュメンタリー・ジャパンのプロデューサーの橋本佳⼦が、僕に「興味はある?」と尋ねてきたので、そこで菊次郎さんの撮影してきた写真集を取り寄せて、観ました。どんな撮影現場でも、菊次郎さんのカメラは、そこで闘ってきた⼈たちを真正⾯から捉えている。私⾃⾝、ドキュメンタリーで⼈を撮影した⼈間として、その姿勢と、菊次郎さんが撮ってきた写真に衝撃を受けまして、ぜひお会いしたいと、お⼿紙を書いたんです。

2009年の夏にお会いした時から、菊次郎さんの⼈柄にすっかり魅了されてしまいました。ずっと年下の僕がこういう表現をしていいのかわかりませんが――とってもチャーミングな⽅なんです。そして菊次郎さんの撮ってきた写真はもちろん凄いのだけど、菊次郎さんが語る、写真を撮った当時の話、シャッターを押すまでのお話に惹き込まれました。

菊次郎さんと、撮ってきた写真と、菊次郎さんが語る「写らなかった戦後」の話をとにかく記録したい、と思い、あんまり「出先」(発表媒体など)を考えずに、取材を始めました。

月に一、二回くらい、山口県の菊次郎さんのお宅に通いました。当時、菊次郎さんの写真集は絶版になっていたのですが、ピカドンとか、学⽣運動とか、三⾥塚とか、⾃衛隊潜⼊とか、一冊一冊を用意して持っていって、一枚、一枚、ページを捲りながら、写真を撮った当時のお話を聞きました。菊次郎さんがやってきたことを、映画を通して、丸ごと伝えたいと思いました。

2009年に取材を始めて、2010年の一年間でほとんどの取材は終わっているんです。
ある程度の編集をして、どういう形の映画にしようかと思っていたときに、2011年、東日本大震災と原発事故が起きてしまいました。菊次郎さんのところに行くと、菊次郎さんが真剣な⽬で原発事故の報道を⾒ておられて、「今の福島がかつての広島と重なる」とおっしゃったんですよね。当初、菊次郎さんは「⾃分なんか⾏ったって迷惑になるから、被災地には⾏けない」とおっしゃっていたんですけれど、震災から半年後くらいに、やはりどうしても行きたい、ということになって、被災地、福島の取材にご一緒しました。

福島での取材を終えて、映画としてまとめる時に、かつて広島であれほどの悲惨な被曝経験があったのに、原発の⼤事故を招いてしまったことを、今のニッポンに問いかけたいと思いました。菊次郎さんの写真家としてのスタートは被爆者の中村杉松さんとの出会いだったので、最後のシーンも中村杉松さんへのお墓参りにして、観てくださった⼈に、いろんなことを考えてもらいたいと思いました。

来場者の声より ①

「以前、上田さんと一緒にみんなで実行委員会を作って上映会をやったときは。たしか2013年で、まだ菊次郎さんは都合でこられなくて……亡くなったのが、2015年でした。すごいことやっている人に出会えていたんだなと、今日もう一回観てあらためて思いました。本当に、今多くの人に見てほしいです」

 

「上田さんがこの上映会の企画を、つい最近まで知らなかったんですが、私はほんとに嬉しくて。ぜひ行こうと思って来ました。(一昨日の)憲法記念日集会の有明にも行けなかったので・・・。またこんなふうに、地域でつながってやりたいなと思います

長谷川三郎監督のトークより ②

菊次郎さんは、被爆地、広島での取材を初めてから、これまで、ずっと中村杉松さんのことを思っていらっしゃったんだろうな、と思います。僕らは、原発事故があったことで、ニッポンが過ちを犯したことを、あらためて考えさせられるんだけれども、菊次郎さんは、中村杉松さんに「仇をとってくれ」といわれてから、⾃分は「仇を討てたのか」とずっと思っていらっしゃったんだな、と感じました。

僕みたいな⼈を撮る仕事をしている者にとって、菊次郎さんの写真の凄さって何だろうと考えたときに――あの、正面から撮っているんですよね。被写体にカメラを向ける時に、彼らの⽬線を真正⾯から受け止める。原爆の後遺症で苦しんでいる中村杉松さんも、三里塚で闘っている⼈たちの視線も。なかなかできないですよ。

菊次郎さんの写真がパネルでも残されていますが、映画にする時は、そのパネルを集めて三日間くらいかけて撮ったんですね、一枚一枚。ピカドンから始まって、自衛隊とか三里塚とか。その作業は、とても不思議な感覚でした。菊次郎さんのパネルを撮影していると、そこに写っている撮影対象の視線に⾒返されている感じになっていく。

菊次郎さんの写真って、被写体から⾒返されるんですね。権⼒に横暴に対して、⾃分たちの力で戦って来た⼈たち、虐げられて苦しんでいる⼈たち……。菊次郎さんは様々な現場でそうした方々と出会って、その念をカメラを通して真正⾯から受け取って、写真を通じて、それを観た⼈に届ける。菊次郎さんの写真にそんなパワーがある。

人を撮影するときって、なかなか真正⾯から目線を受止められないんです。これが菊次郎さんの強さだなと、あらためて思いましたね。 そして単に、被爆者であるとか、三里塚で闘う⼈という記号でない、そこに生きるそれぞれの⼈たちの根っこにある暮らし、生活、人生をしっかり描いた写真を撮っています。

映画は2012年に完成しましたが、おかげさまで、これまでたくさんの⽅に観て頂いています。去年の2025年は、ちょうど戦後80年ということで、映画祭での上映* もしていただきました。

第16回座・⾼円寺ドキュメンタリーフェスティバル「戦後80年 ⽇々のこと」ほか

⾃分も、久しぶりにこの映画を観て、⽇本がまた同じような過ち、ニッポンの嘘を繰り返しているんじゃないかという感覚になりました。あらためて菊次郎さんが撮った写真に⼒を感じますし、あれからさらに時間がたった今、より訴えるものがあると思います。

 

来場者の声より ②

「広島の平和記念資料館で被爆者・中村杉松さんを撮った一連の作品に出会いました。この映画では、三里塚の人びとや、障害者でリブ活動家の女性、原発事故で生業を奪われた飯舘村の酪農家・・・と、菊次郎さんが向きあって捉えたひとりひとりと、自分は同じ時代を生きている、すべて地続きで、終わっていないどころか目の前に積み上がったままだ、とあらためて迫られたような気持ちです」

 

「映画を見た人は皆さん同じだろうと思うのですが、菊次郎さんの「ごめんね」は、刺さりました。私も言いたい、「ごめんなさい」と。菊次郎さんとは年齢も経験も全く違いますけれども、でも、私も「ごめんね」と言いたい、そう強く思わされます」

 

「今日初めてこの映画を観ました。私の世代でいうと、チェルノブイリ原発事故があって、当時大学生でしたが、すごく議論したんです。人間のいまの科学では抱えきれないようなものであるにもかかわらず原発が作られる、反対の声をあげよう、と。その後、時が経ち、気持ちは明確に原発反対でも、具体的なことは何もできないまま3.11を迎えて、ものすごく後悔しました、これまで何をしてきたんだろうって。あんなに闘ってきた福島さんも後悔の念を抱えていたんですね。でも、ひとりでは手に負えない大きな問題にも、立ち向かって行かないといけないんだと、福島さんの姿をみて改めて思いました。やらなきゃな、と。」

主催者より

なぜもう一度「ニッポンの嘘」上映会を開こうと思ったかといえば、現在の政権だけではなく、我が国全体が非常に右傾化しているのではないかと感じるなかで、ふと、前回の上映会のあと何度か菊次郎さんにお会いしたことを思い出し、彼の思いを受け継ぎたいと思ったからです。

菊次郎さんが亡くなったときは、たまたまNHKニュースで知ったのですが、そのニュースの映像で、彼が寝ていたベッドの枕元に、僕と並んで撮った写真が飾られていたことを発見して、改めて彼とのご縁を深く感じました。

長谷川さんも語っておられるように、杉松さんのお墓の前で「ごめんね」と慟哭されてトボトボ坂を降りられていたシーンが心に焼きついて残りました。他の地域でもぜひこの映画の上映会を開いて、みんなに観てもらいたいと思います。

上田 要

 

↑

新刊のお知らせ