〈自由〉の〈門〉をめぐる話 その1
壁が築かれるかもしれない
息子の通う公立小学校の移転予定地に「平和の門」と呼ばれる「刑務所の門」が残っている?! 昨年1月、私は初めてそのことを知った。
「刑務所の門」とは、1915年に竣工した旧豊多摩刑務所(旧中野刑務所)の正門のことである。戦前・戦中、豊多摩刑務所には、プロレタリア文学者の小林多喜二、文芸評論家の亀井勝一郎、無政府主義者の大杉栄、宗教家の戸田城聖ら、多くの政治犯や思想犯が収容され、哲学者の三木清はここで獄死した。戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が接収し、米陸軍刑務所として使用された。接収が解除された後、中野刑務所として引き続き使用されていたが、移転を望む住民の声が高まる中で1983年に閉鎖された。
中野刑務所の跡地は平和の森公園や矯正研修所として整備され、門は矯正研修所の一角に残された。煉瓦造りの中野刑務所の正門は大正モダニズム建築の傑作とされ、「若き天才」と称された建築家の後藤慶二が設計した建物として現存する唯一のものだという。刑務所の閉鎖時、門の保存を求める声が高まり、残されることになったという経緯がある。
矯正研修所が昭島に移転するのに伴い、そこに息子の通う中野区立平和の森小学校が移転することになっていたのだが、昭島の移転予定地で希少鳥類が見つかり、矯正研修所の移転は先送りされていた。こうして、小学校の新校舎建設も進めることができない状態が続く中、生徒数が増える一方の小学校では教室が足りなくなった。
PTA は特別委員会をつくり、新校舎建設を早期に開始するよう区側に交渉していたが、その中で「刑務所の門」の存在はほとんど話題にならず、あたかも取り壊すことが前提のようになっていた。
この1年あまり、私は「刑務所の門」の保存を目指して奔走した。どれだけ多くの時間を費やし、どれだけ多くの場所を訪れ、どれだけ多くの人に会っただろうか。 「門が残っていると校庭が狭くなる」
「老朽化した建物を残すと危険」
「小学校に刑務所の門などふさわしくない」
といった理由で、反対する声も根強い中、文化財としての価値、歴史を学ぶ材料としての価値を伝えるために私は行動した。私が「刑務所の門」の保存にこれほど情熱を傾けたのには訳がある。そのことも追い追い書いていきたいと思うが、今はそれどころではない。
結論を先に言おう。「刑務所の門」は現地での保存が決まった。
しかし、区が提示している新校舎の設計案はあまりにもひどい内容だ。その案が採択されれば、門は4階建ての校舎の陰に入り込む形になってしまう。この案をなんとか撤回してもらわなければ……。
門の保存と活用を求める人たちは、いつの頃からか「刑務所の門」を「平和の門」と呼ぶようになった。激しい思想弾圧下で戦争に向かった時代から現在に至るまで、人々が平和を取り戻そうとしたプロセスをこの門は目撃してきたのだから。私は現在、建築家や市民がつくる「平和の門を考える会」で活動している。同会代表の前野まさる東京藝術大学名誉教授は、東京駅の駅舎や上野の奏楽堂の保存運動を率いた人物である。
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[画像出典]
- 豊多摩監獄表門写真 『紀念寫眞帖』(1910 年の豊多摩監獄竣工時に作成された写真集)