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どら猫マリーのDV回想録 その13

カルトな私 partⅠ

私も一つ特技が欲しかった。中国語やスペイン語は必須科目と重なり履修できなかったが、たまたま韓国・朝鮮語という科目は履修できた。何より、その担当教官のキャラクターや話が面白かった。「なんか、日本の学生はもったいないね。入学したと思ったらもう就職でしょ? もう少しのんびり学生生活を堪能したらいいのに。いつも人数が不足しちゃうの。あなた行かない?」という何とも軽い留学推薦を、ありがたく受けたのだった。

私の通った大学は日本人留学生も多く、寄宿舎を利用したところで韓国語は身に着かないという話だった。教会が運営しているけれど、一般の学生も入れるという下宿を原理研究会から紹介してもらい、そこに入居することにした。

何もそんな怪しいところに身を寄せなくても、と思われるだろうか。

けれども、私にとって「教会の人」は、ナントカがつくほど「正直で真面目な人」であって、「怪しい」という要素はあまりなかった。そもそも人付き合いが苦手で、恋愛話もお酒の席も苦手。おしゃれな女子大に自分がなじめるかどうかも、自信がなかった。徹夜祈祷の末に伝道中に寝てしまうくらいの人たちだから、下宿の留学生を洗脳するとか、そういうことはできないだろうと思っていた。

しかし、後になってわかったことだが、この下宿は、信仰生活どころか、社会生活さえできなくなってしまった信者の子どもたちの更生で知る人ぞ知る場所だったのだ。

下宿を営んでいる教会長は日本人で、奥さんが韓国の方だった。ちなみに、この奥さんに「信仰」はなかった。お兄さんが熱心な信者で、その勧めで合同結婚式に参加しただけだという。奥さんは経理を担当していて、彼女にとって教会は職場であって信仰の場ではなかった。ただ夫婦仲が良く、3歳の男の子と生まれたばかりの女の子がいた。

2階が教会長家族の住まいと礼拝室、一階が共同スペースと下宿人の個人部屋。半地下に社会人の日本人が住んでいた。その日本人は、韓国に住みながらマンガで生計を立てている不思議な人だった。教会の出版部門で、教義を分かりやすく伝えるための漫画やイラストを担当していたらしい。

信仰云々ではない。「真の父母」を信じるか否かではない。その人がその人らしく、「私の人生、これだ!」と活き活きと生きられるようサポートする、みたいなことを教会長は言っていた。一人一人が個性真理体。ふむふむ。何かどこかで聞いたことがある言葉だ。
自分自身は唯一無二。それを教会では個性真理体と呼んでいた。

  祝福の二世と信仰の二世

信者の子どもたちを祝福の二世と言った。
教会では結婚を祝福という。祝福とはたぶん神の祝福なのだろう。原罪清算を意味するらしい。この世の人には原罪があるのだそうだ。人類の始祖、アダムとイブが神の掟を守らず堕落したことがこの世の全ての悪の始まりだそうで、統一教会はその大本である原罪をなくすことができる、それが祝福、いわゆる、合同結婚式なのだそうである!

その儀式後に生まれた子どもたちは、原罪が清算された人間から産まれた子どもたちということになるので、産まれたときから原罪がない。それらをもって祝福の二世という、らしい。

 

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