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東アジアのクィア・アクティヴィズム 福永玄弥 番外編

安全な空間と不適切な身体

-ピョン・ヒスさんを追悼して―

軍の上官や同僚たちの好意的な反応は、ピョンさんだけでなく軍人権センターの活動家たちも驚くほどであった。11月には休暇を利用してタイへ渡航し、性別適合手術を受けた。帰国後まもなく部隊への復帰が認められ、12月29日には法的性別を女性に訂正すべく地方裁判所に申請をした。

軍人権センター事務局長のキム・ヒョンナムは、ピョンさんの当時の様子を次のようにふり返っている。

ピョン・ヒスの道はピョン・ヒスがひとりでつくりあげたものではなかった。ピョン・ヒスの勇気の裏には、長い悩みの中で慎重に行動に移したカミングアウトと予想もしなかった上官や戦友たちの支持と応援の場面が積み重なる。……ピョン・ヒスは上官に初めてカミングアウトした2019年7月から半年以上(陸軍で)何事もなく服務を果たした。(陸軍では)いかなる排除も、差別も、嫌悪もなかった。自分の姿のまま、軍でも存在できるという信頼を持つには十分な時間だった。*3

ピョンさんは軍が自分を見捨てることはないと確信した。上官に手術の意思を表明したことも、許可を受けて手術のためタイに渡航したことも、帰国して国軍首都病院に入院して部隊への復帰を準備したことも、すべてそのような信頼にもとづいていた。しかし、軍はピョンさんの期待を裏切り、信頼を打ち砕いた。

現役兵として服務中に性別適合手術を受けた例は、軍が把握するかぎりピョンさんを除いてほかにない。軍はピョンさんの処遇をめぐって審査委員会を開催することとし、その旨を彼女に通達した。女性としての服務継続を希望するピョンさんは、性別訂正の裁判の結果が出るまでは審査委員会を延期するよう軍に要請する。

彼女の性的自己決定権を擁護すべく、つまりピョンさんがみずから望む性別で軍での服務ができるよう支援を続けてきた軍人権センターも審査委員会の開催延期を陸軍に要請した。国家人権委員会(2002年に設置された人権保護を目的とする国家機関)もピョンさんの主張を擁護して、陸軍に対して審査委員会の延期を勧告した。
だが、陸軍はこれらの要請や勧告を聞き入れなかった。

カミングアウトから半年後、適合手術を経た性別訂正申請からはわずが1か月後の2020年 1月22日、陸軍は審査委員会を開催し、ピョンさんの強制除隊(転役)を決定した。この決定を不服として、ピョンさんは軍人権センターの支援のもと記者会見を開いた。軍の決定に対して異議を申し立て、女性として服務を継続することを強く主張したのである。

一部の保守メディアを除いて、国内外のニュースの多くはピョンさんを勇敢なトランスジェンダーの当事者として肯定的にとりあげ、軍の保守的な態度を批判した。日本でも、ピョンさんに関するニュースは韓国のトランス女性差別の事例として紹介された。*4

陸軍によるピョンさんの強制除隊はたしかにトランスジェンダーに対する差別であるが、私たちは次の問いを立てることによってこの問題に対してより正確に接近することを試みたい。ピョン・ヒスという22歳の下士官を排除することで軍が守ろうとしたものはなんだったのか、という問いである。ピョンさんの告発をはじめ、国内外のマスメディアによる批判や国家人権委員会の勧告を無視してまで、はたして軍はなにを守ろうとしたのだろうか。

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