出版舎ジグ
jig-web メッセージ

決してひとりで生きてきたわけではなくヘッダー画像

『ひらけ!モトム』によせて

上田さんの歴代介助者のトーク

その1

決してひとりで生きてきたわけではなく

上田:
いまだに、いわゆる(特定の)パートナーができてないということが、その証拠です。パートナーがいれば青春終わるんだろうと思うんですけど(笑)いまだに青春。まっさかりとは言いませんけど(笑)。相変わらず女性を追っかけてます(笑)

岩下:
なるほど(笑)まだ続いている(笑)

上田:
まあ、それが、人生の励みにもなってるのかもしれませんけど(笑)

岩下:
人生の励み、ですか(笑)

上田:
はい(笑)まあ、すみません、ちょっと横道にそれました。

—全然違う世界が広がっていた

岩下:
いえいえ、ありがとうございます。中村さん、何かありますか?

中村:
えーと、ぼくは、さっき言った通り「ぼらんたす」っていう東大のサークルで、はじめは自立生活とか介助とかへの思いがあったわけでもなく、ボランティアみたいなことにも特に関心はなく、なんか大変だな、偉いな、みたいな感じで、他人事のように思っていたんです。大学に入って、新歓とかのときに、たまたま「ぼらんたす」の先輩に出会って、たぶん懇親会?(笑)そういうのに参加して、いろいろ話をするのは面白かったんです。

けれども、介助みたいなことに対しては、けっこう心理的なハードルがあって。大変そうだなと思いながら、何度か顔を出してるうちに、これはちょっと介助に行かざるを得ない流れだよな……という流れで、はじめて介助に伺わせていただいたんです。

実際に介助に入ってみたら、やっぱりそれまでの高校生活とか大学入っての生活とは全然違う世界が広がってるなと。高校とか大学とか、自分と同じような年代の、同じようなクラスターというか、同じような種類の人たちとだけ交流していたときに、介助っていうことを通してそれとは違う、一歩殻の外に出る接点が、初めてできた。それが非常に大きかったなと思います。

上田さんとは非常におだやかなやりとりだったたんですけれど、ぼくは1993年入学で、その前年ですかね、バスから乗車拒否された件があったと聞いて、すごくびっくりして。ちょっと前の時代だったらそういうこともあったのかもしれないなと思ったけれど、現代でも——今からもう30年くらい前になりますけど、90年代でもまだそんなことがあるんだと、衝撃を受けて、原体験になってると思いますね。

岩下:
なるほど。ありがとうございます。今「全然違う世界に出会った」というお話ですけど、及川さんもそれに近いですか?

及川:
そうですね、はい。最初は本当に、上田さんの喋る言葉もわかんなくて。ほかの周りの方がちゃんと聞き取れているのに私はわかんない、っていうことが非常にショックでしたし。

私は上田さん以外の方の介助をしたこともないですから、自分でもあんまり「介助をしている」という意識はなくて、上田さんと付き合ってた、というか、そんな感じですね。介助者の技術的な知識もなく、ほんとに友だち感覚で、同じ時間をともに過ごしていた、っていう感じですね。

岩下:
なるほど。友だち達として関わっていた中で、変わっていったものもありますか。というのも、このトークの事前打ち合わせで、zoomでは上田さんの声が聞き取りづらいんじゃないか、字幕機能を使おうかって話が出たとき、及川さんが「そんなものを使えば簡単でいいってもんじゃない」とおっしゃったのが、ぼくはとても印象的だったんですけれども。

及川:
そうですね。上田さんと出会って、演劇ワークショップで障害がある人・ない人一緒に表現を作るっていう作業をやっていくうちに、単純にその、なんだろう、障害なんては何もないってことが、すごくわかるんです。

人はいろいろ、例えば喋るのはうまい人とか、喋るのは得意ではないけれど体を動かすのは得意な人とか、それぞれいて、そういういろんな人が助け合って社会はできていく。助け合ってひとつの演劇を作る作業の中で、障害ってなんなんだろうと気付かされた。そのきっかけに、上田さんがなっていったということが、ひとつ、大きかったですね。

「太陽の市場」っていう活動は何年か続いて、その中で上田さんや他の障害者の方とも関わっていったんですけどね、そういう経験が非常に大きかったと思っています。

岩下:
なるほど。ありがとうございます。中村さんはいかがですか、そのあたり。

中村:
そうですね、、やっぱりそれまでは「障害者」っていうカテゴリーで考えてたかなって思うんです。でも実際に介助を通して、できること・できないことがある中で、介助っていう形で一部をサポートするんですけれども、その表面的な違いとか、表面的に人によってちょっと違うということはあるけれども、やっぱりそうじゃない。

なんて言うんでしょうね。いろいろ接していく中で本当にすごく勉強になりましたし、なによりひとりの大人としてというか、先輩として付き合っていくっていう、そういう体験を学生の時にできたのは非常に大きかったと思っています。

—親がオープンに育ててくれたから

岩下:
なるほど、ありがとうございます。
ぼく自身も介助に入って上田さんの話を伺っていく中で、似たようなというか、うまく言葉にできないですけどね、そういう経験を、感覚を持ってきたので、興味深く伺いました。上田さんの立場から、何かコメントありますか?

上田:
『ひらけ!モトム』を読んだ方にはわかると思いますが、子どもの時から親たちがわりとオープンに育ててくれたんです。それがけっこう、これまでの人生で大きかったかなと、思ってます。障害を持った方たちのことを家族が隠そうとすると、隠された側にとっちゃもう完全に、自分は社会にとってマイナスなんだろうと思うしかないわけですよ。

それを隠さないでオープンにしたって言われて、普通に学校に――母が毎日付き添うという条件で通ったので、いわゆるいじめとか、あまり記憶がないんですけど。

岩下:
お母さまが毎日、小学校に一緒に通って、ノートも取ってくださってたんですもんね。

上田:
そうです。そういうベースがあるので、それなりに人との付き合い方みたいなものは身についてたかなと思ってます。もちろん、学校に行かなかった時代から25歳くらいのあいだの約10年間、本当に孤独でした。今まで遊びに来てくれた友達は全然来なくなって、農家だったんで、(両親は)田んぼや畑に行く毎日が多くって、ただぼくはテレビを見て、過ごしてた時間も多かったです。

他の同じ年代の人たちは高校とか社会人になったわけですけど、ぼくだけなんで取り残されたんだろうっていう悔しさがあって。約10年間、百科事典とか文学全集とか新聞とか本とか、読み漁りました。それがいまのぼくのベースになってくれてるのかなと思ってます。

25歳のときに広島県の施設に入って、いやというほど障害者の社会に置かれた立場を身に染みて。東京に出てきてこういう活動を始めたわけですけど、たまたま偶然に演劇ワークショップっていうのに出会って。

つづく

【『ひらけ!モトム』によせて】連載記事一覧はこちら »

↑

新刊のお知らせ