『ひらけ!モトム』によせて
− 相模原施設殺傷事件の死刑判決とある障碍当事者の声 −
さ よ な ら は 言 わ な い
3
誰彼も言ってるけど、植松の個人の残忍さはあるにしても、社会も、被害者を殺した、殺してしまったんじゃないか、というような思いもあるわけですよ。
すなわち、植松被告が殺した、というだけではないのではないか。なぜ障碍者を一箇所へと集める施設が存在し、そのような施設に障碍者と呼ばれる人たちが入らざるを得ない現状があるのか。報道や裁判において、なぜ被害者が匿名とされるのか。そこには、やはり社会として、障碍者を「いらない存在」とみなす眼差しがあるのではないか。その意味において、私たちも殺した。社会が、「いらない存在」として、何重にも被害者を殺したのではないか。
*
上田さんの友人の小林さんは、自殺を2回試みた後、すでに施設を退所していた上田さんの紹介で「青い芝の会」と繋がり、施設を出て自立生活を始める。「青い芝の会」とは、「健常者社会」からの障碍者の解放を目的とした運動を展開してきた、脳性麻痺を抱えた当事者による障碍者団体である。小林さんは、「青い芝の会」の活動にも関わっていった。
しかし5年後、酒の飲み過ぎで体を壊して寝たきりになってしまう。そうして上田さんが小林さんのお見舞いに行ったときのことだ。
途中でふっと目を覚ましてね、俺の顔を見てね「あぁ、来たのか」みたいな感じで、ふっと言い出した言葉が「俺は、あんたのおかげで、青春を味わえたよ」って言ったとこで、また眠り込んでしまったのね。それが6月だったんだけど、その年の10月にたまたま(小林さんに必須である)24時間介助者が居なくて、(介助者不在の時間を挟んで)次の(担当の)介助者が行ってみたら、肺炎をこじらせて亡くなってたのよ。33か4だったかな。
なんでわざわざね、「あんたのおかげで青春を味わえた」なんてさ。健常者側から言えばさ、なにそれって話になるでしょ。だってわざわざ言う人っていないじゃないですか。いますか?ね。そのまさに遺言みたいに俺にぶつけてきたことにさ、彼も多分そう(遺言のつもり)だったと思う。
たとえどんなに環境の整えられた施設でも、どんなに大切にしてくれる家族でも、それは障碍者を社会から排除する装置となる。優しさで、あるいは愛情で、障碍者を囲い込み覆い隠す。だから青い芝の会は、その行動要綱に「われらは、愛と正義を否定する」と記した。そうした囲いを取っ払い、裸一貫で地域に出ることによって、初めて見える景色がある。
(小林は)施設を出て初めて女の子と出会ったりしてったらしいのね。酒も飲み、病気もし、活動もしたということで、初めて青春みたいなものを味わえた的な想いを込めて、俺に言ったんだと思うのね。それを味わえたことこそが、彼にとっちゃ生きるよろこびだったんだろうなと、思ったわけですよ。
生きてきたっていう感覚を持ってる者が、幸せなんだろうと思う。人と会って、こうやって話をして、でお互い出会えたことをこうやって喜び合えれば、これはもう俺が生きていてよかったなと思うわけですよ。金とか名誉じゃないじゃん。
人と出会うこと、出会いを祝い合うこと、それが生きるよろこびだと。施設から出て、地域で暮らしていくことによって、初めて人と出会い、生きるよろこびを感じることができると。小林さんの遺言はまさにその象徴であり、何よりも上田さん自身が施設から出て地域で暮らしてきた中で、強く感じている。
この、人と出会うよろこびについて、社会学者の真木悠介は『時間の比較社会学』の中で次のように記している。
〈あなたが生きた〉という事実、今日このように語り、飲み、歌ったという事実は不可逆的であり、消えることがない。(p.6)
われわれが現時充足的な時の充実を生きているときをふりかえってみると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだということがわかる。(p.315)
誰かと出会い、語り合うこと、それは決して消えることがない事実である。そしてそれこそが、自分という狭い檻から私たちを連れ出し、生きている実感を与え、今という時を満たしてくれる。