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家事労働者とその周囲のこと 伊藤るり その1

映画「ローマ」を観る

家事労働者と雇用主の物語から社会変革へ

映画は、家事労働者のクレオと雇用主のソフィアがそれぞれパートナーの男性に一方的に捨てられ、深く傷つく中で互いの距離を縮め、それぞれに立ち直っていくというふたつの物語を並走させ、これらを交わらせるように展開する。フェルミンと交際するクレオは妊娠に直面するが、フェルミンはそれを知って姿を隠してしまう。困ったクレオはソフィアに妊娠を打ち明ける。

解雇を覚悟していたクレオだが、ソフィアはむしろ彼女を病院に連れて行って出産を助けようとする。そうして、臨月が近づき、ソフィアの母テレサと外出したクレオは、学生運動を弾圧する政府支援の武装集団の中にいたフェルミンと偶然まみえる。ショックでクレオが破水。テレサが急いで彼女を病院に連れて行くも、子どもは死産となる。

その一方で、夫がべつの女性との生活を選んで離婚が決まり、途方に暮れていたソフィアは、ようやく新しい仕事を見つけ、心機一転、子どもたちを育てていく決意を固める。その再スタートの矢先に、海水浴でソフィとパコ(幼年時代の監督)が溺れかけ、今度は、クレオが——オアハカの高地で育ったクレオは泳ぎ方を知らない——命がけで大波の中に入っていって子どもたちを連れ戻し、一家を危機から救う。

クライマックスは、砂浜にへたり込むクレオとソフィに、異変を知って駆け寄ってきたソフィアと子どもたちが濡れた身体で互いを抱きしめ合うシーンで、ポスターにも採用されている。嗚咽するクレオが身体の奥から振り絞るようにして何かを言うと、動転しているソフィアはその言葉を聞き取れないのか、ひたすら「クレオ、わたしたちはあなたことが大好きよ。とっても愛している」と繰り返してクレオを労う。

そのクレオは子どもたちを奇跡的に救出した衝撃によって魂を揺さぶられ、それまで心の奥底に閉じ込めてきた、死産だった子どもへの思い、本当は「生まれてほしくなかった」という否認し続けてきた感情を言葉にして吐き出す。

このシーンは、現実であったならカメラのレンズが入り込む隙間もないほどに6人の身体が密着するはずのところだが、それでは中央に座り込んでいるクレオの声が聞こえなくなる。そのためか、監督は6人をやや不自然に扇状に開いて、立っているぺぺを頂点とした緩やかなトライアングルに配置している。それがまた、鈍く光る太陽と空の下の6人の姿に、どことなくエル・グレコの宗教画のような、荘厳な空気を与えるのである。

 

「ROMA/ローマ」オリジナル・サウンドトラック(SICP6088、ソニー・ミュージックエンタテインメン ト)も映画ポスターと同じジャケット。ディスクには末っ子パコと物干しベランダで「死んだふりごっこ」 をするクレオ、リーフレット裏は休日にフェルミンとのデートに向かうクレオのショット

 

なお、クレオを演じたヤリッツァ・アパリシオは、自身、オアハカ出身で泳ぎ方を知らない。荒れた海の中に入って行くシーンは、したがって文字通り必死の演技だったと語っている。また、このシーンをどう撮ったのかとスパイク・リー監督に訊かれたクアロン監督は、カメラを水平に保つことだけでも大変で、撮り直しはないつもりだったと答えている。「溺れたら、どうしていたのか」という冗談交じりの問いに、「ストーリーを変えるつもりだった」と話していて、そこにはいくつもの奇跡的要素が組み合わさっていたことがわかる。

ところで、この映画には重要な伏線となる台詞がある。
「わたしたち女はみなひとりぼっちよ。なんのかんの言ってきても、いつだってひとりなのよ。」映画の中盤、アントニオが家を出たあと、酔っ払って帰宅したソフィアがクレオに対して投げかける言葉である。

クアロン監督は何を言いたかったのだろうか。男に裏切られた女たちの共通の痛みがある。しかし、これを乗り越えようとする女たちの連帯、合力もある——。別々のふたりの物語に、遠慮がちではあるけれど、フェミニズムというメタ・ストーリーを調合することで両者をつなげようとする、監督のそんな意思がかすかに感じ取られる。
そんな安易な、ロマンティックなまとめ方してくれるな、特に男の監督からされるのはごめんだという、メキシコのフェミニストの敏感な反応もあるようだ。かくいうわたしも、最初観たときには、その方向への微妙な振りを感じて、なんとなく居心地の悪さを覚えた。
しかし、アントニオが自分の持ち物一切合切を運び去ってがらんとしたコロニア・ローマの家に戻ったクレオを待っているのは、相も変わらぬ使用人の生活である。

この厳然たる身分の違いを示すシーンは映画各所に散りばめられている。雇用主たちの世界と使用人たちの世界が階上と階下とで真っ二つに分かれるクリスマスのシーンもそうだが、ここで注目したいのは電話の取り次ぎのシーンである。かかってきた電話にクレオが出て、ソフィアに取り次ぐ際、クレオは必ず口を当てていた受話器を拭ってから渡す。海浜から帰宅した終盤でもこのシーンが用いられ、子どもの救出というドラマチックなできごとで、距離が縮まったかに思われた家事労働者と雇用主の関係が、元に戻ったということを観ている者に印象づける。そうして映画は最後、望まない妊娠で苦しんだクレオの、よし、また頑張っていこうという気持ちを感じさせる「青い」空で終わっている。

1992年、「新大陸発見」500周年の年に半年、コレヒオ・デ・メヒコで教える機会のあったわたしにも、着任してすぐ「シルビエンテ(使用人)」を雇わないかとの声かけがあった。
収入のある者が通いの家事労働者を雇うことは、貧しい人びとへの社会的義務でもあると諭された。しかし、家の掃除ぐらい自分でやれるし、そもそもプライベートな空間に雇用関係を持ち込むことに強い違和感があった。いや、責任ある雇用主になるという自信がなかったと言うべきかもしれない。
そう思うようになったのは、T先生のケースを知ってからである。T先生の場合、農村部出身で、義務教育を終えていない女子を住み込みで雇い、読み書きを教えて習得し終わると、次の女子を雇うといった具合に、「雇用」を経済機会のみならず、教育機会にも転換するという戦略を立てて、児童労働の搾取を回避してきた。しかし、そのような方法を採るには、雇う側にも相当のコミットメント、知識、そして経験が必要で、短い滞在で言葉も十分話せない自分には無理だと感じた。

[画像出典]

  • 「ROMA/ローマ」オリジナル・サウンドトラック(SICP6088、ソニー・ミュージックエンタテインメン ト)

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