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ヴィヴィアン・マイヤーヘッダー画像

家事労働者とその周囲のこと 伊藤るり その2

ヴィヴィアン・マイヤー

「謎のナニー・フォトグラファー」像とその背後にあるもの

写真を観ながら、映画の中で、マイヤーを知る雇い主家族が口々に彼女の「変人ぶり」を指摘していたことを思い出した。マイヤーは見知らぬ人に名前を聞かれるとしばしば名前を変え、「自分は一種のスパイみたいなものだ」と冗談めかしつつ素性を隠したが、他方で何ごとにおいても強い意見を持ち、頑固なまでに意見を曲げなかったという。その強い性格は彼女の写真にも表れているようだ。身長170センチ強のマイヤーは強い関心をもつ被写体を認めると、大胆に接近し、対象と独特のラポール(信頼関係)を生み出す能力を持っていた。

自身もストリート・フォトグラファーとして著名なジョエル・マイヤーウィッツは、その映画の中で、撮影技術という観点から次のように説明していた――マイヤーは被写体を見つけると、首に提げたローライフレックスのビュー・ファインダーに目を落として構図とフォーカスを定め、そこで目を上げると、今度は被写体となる人がマイヤーに気づいてその目を見つめる。その瞬間、シャッターを切るのである。カメラはその人の顔を下方から捉え、佇まいや表情の中にその人の特質、尊厳や力強さを表現するのに成功しているのだ、と。


展示のひとつひとつの写真に付された説明によれば、ほぼすべてがマイヤー没後のプリントである。住み込みのナニーだったマイヤーはおおむね町の写真店に現像を依頼していた。これはパメラ・バノスの研究(後述)を読んで知ったことだが、ある時期から現像がなされなくなり、しだいにネガだけがたまっていったという。現像への関心を失ったからなのか、経済的余裕がなくなって現像代が払えなくなったからかはわからない。30歳代の頃は雇い主の提供する住まいにバスルームもあったので、ここを暗室にして自身で数種類の紙を試しながら現像・プリントをしていた時期もあったようだ。そうした際に彼女が残したメモ、あるいは写真店へのサイズや紙に関する指示からある程度マイヤーの好みを知ることができて、今回展示されている写真もこれらに基づいてプリントされている。

没後の現像——音楽に喩えるなら、膨大な数の楽譜を残したものの、ついにその演奏を音として聴くことなく世を去った作曲家ということになるだろうか。不思議な気持ちのままで会場を出ようとすると、出口に来館者がさまざまに感想を記す分厚いノートが置いてあった。そこには、国際色ゆたかなファンの熱烈な言葉がどのページにも記されてある。曰く「ヴィヴィアン、愛しているよ」「最高!偉大な女性写真家」「アメリカにとっての写真のベルエポック」「すばらしい展覧会!」など。

無名のナニーとして世を去るはずだったマイヤーがストリート・フォトグラファーとして名を成すようになったのは、亡くなる1年半前の2007年10月、彼女の膨大な所持品をしまっていた貸倉庫の代金を払えなくなり、収納されていた一切合切がシカゴのオークションにかけられたからである。


マイヤーは「パックラット」(もりねずみ)のごとくあらゆるものをため込む収集癖の持ち主だった。そのことは、「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」の冒頭で監督のひとりでもあるジョン・マルーフが語っている。シカゴの蚤の市でビジネスに情熱を傾けてきたこの青年は、オークションの落札者のひとりで、マイヤーを世に知らしめる上で中心的役割を果たした人物である。

マルーフは、山のように積まれた箱やスーツケースの中にある大量の写真やネガなどを少しずつ吟味し、気に入ったものをeBay(ネットオークション)にアップロードしていったところ、大きな反響を得た。この過程で、写真が作品として高い価値を持つことを確信したのだという。

しかし、マイヤーとは何者なのか。
ネットで調べても手がかりはまったくなく、彼女が亡くなったことを告げる死亡記事だけがあった。マルーフはしだいにマイヤーの作品の「キュレーター」を自認するようになった。散逸したマイヤーの写真を他のバイヤーから買い取り、自分が売却したものを買い戻し、マイヤーを雇っていた家族を探し出しながら、その実像に迫ろうとした。写真については素人だったが、独学し、専門家の協力を得て各地で写真展を開くとともに、写真集を刊行し、ドキュメンタリー映画も制作した。パリでわたしが観た写真も「マルーフ・コレクション」の一部である。

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