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何があっても 小林麻里

先日、私が暮らしている沢尻地区の同世代の人たち(昭和39年前後生まれ)と飲む機会があり、とても楽しかったのだが、その中で子どもの頃のお手洗いの話になった。
私は生まれてから小学校2年生まで、父親が勤めていた会社の社宅で暮らしていた。名古屋の工業地帯の片隅にあったその社宅のお手洗いは水洗で、トイレットペーパーはロールのものを使っていた。小学校3年生のときに引っ越した名古屋郊外のマンションはもう洋式トイレだった。
そのころ飯地のトイレはすべて汲み取り式だった。新聞紙をトイレットペーパー代わりに使っていたという人もいた。戦中戦後はそうだったと私の母から聞いていたが、その人も自分の子どものころの話を都会生まれの人にすると、親から聞いた子ども時代の話のようだと言われると語っていた。それほど、田舎と都会では差があったということなのだ。

昭和40年代になると、飯地にもいくつかの自動車部品などの工場がやってきて、母親たちもそこで働きはじめ、洗濯機、冷蔵庫、テレビと電化製品を順番に揃えっていったという。
工場が5時で終わると、その足で田んぼに行き暗くなるまで草取りをし、それから家に帰ったとも聞いた。お姑さんから「工場に遊びに行っている」(座ってやる工場の仕事は楽だと思われていたらしい)などと言われるので、田畑仕事を休むわけにはいかなかった、とも。

現在は多くの家が合併浄化槽を入れて水洗トイレになっている。生活水準は都会とほとんど変わらないように見える。みなさんの長年の苦労の賜物であるわけだが、それでも飯地が不便な場所であるということに変わりはなく、子どもたちの多くが進学と就職を機に飯地から出て行き、過疎化がどんどん進み今に至っている。(2015年の国勢調査によると、65歳以上の高齢化率は45%超、5年後には50%超の予測。何も対策をしなければ620人の人口が、10年後には400人、20年後には200人になることが危惧される)

田んぼの溜池と畑の写真
田んぼの溜池と畑

ここ数年のIターン・Uターンの移住ブームで、飯地も移住者は増えてきているが、それでも、地元の人たちからすれば、私たち移住者は物好きの変人なのだ。「こんなところになんでわざわざ来たの?」と、はじめの頃よく言われた。

私たち移住者は、その町に代々暮らし続けている人たちと触れ合い、まず相手の話しを聞くことが大切だ。それから、自分たちの考え、暮らし方を伝えていく。お互いに歩み寄ることができたなら、自然の中で豊かに生きる新しい町の姿が見えてくるかもしれないと思う。飯地ではすでにそういう動きも始まっている。
Iターンだけでなく、飯地の自然環境の中で子育てをし、暮らして行きたいと願って家族とともに帰って来るUターンの人たちも増えてきている。娘が婿さんと子どもたちを連れて実家に帰って来る“娘ターン”がほとんどだ。
※飯地地域自治区運営委員会 http://iiji-ena.com/ 参照

メガソーラー問題が起こってから、いろいろな意見を聞いて、いろいろなことを考えた。私の反対だという気持ちは揺るがないし、このままでは建設されてしまうかもしれないと思うと辛くて仕方がない。けれども飯地には頼もしい仲間がたくさんいることがわかり、この町に来てよかったと心から思っている。
長く厳しい旅路の果てにようやくたどり着いたこの場所から、私はこんなことぐらいで出て行くことはしない。この場所で、愛するものたちに囲まれて、残りの人生を豊かに生きると決めたのだから。

夕方、薄暗くなってから外に出ると、世界が蛙の鳴き声に埋め尽くされているかのようだ。我が家の池や湿地からだけでなく、周辺の家々の田んぼや池などからも聞こえてくるから、ステレオ効果で大音量になっているのだ。
薄い皮膚をした蛙たちはとてもデリケートな生き物に思える。環境破壊の影響を一番に受けるのは彼らのような生き物たちなのではないだろうか。
そんな蛙たちがまだこんなにもたくさん生きている。
自然は、私たちの思惑など遥かに超えているに違いない。
だから、何があってもこの場所で、蛙たちとともに生きていこうと思う。

飯地の風景
私の好きな飯地の風景(福原尾地区)
  • 写真はすべて、岐阜県恵那市飯地町にて、撮影s u n a

こばやしまり 2004年福島県飯舘村に移住、平飼自然卵養鶏を営む。07年に夫が急逝後も自給的農業を再開。東日本大震災による福島第一原発事故の放射能汚染で全村避難となり、同県福島市飯野町に避難。2016年より岐阜県恵那市飯地町在住。

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