春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート その2
「なんちゃってJK」はなかなか似合っている。
紺色のジャケットの襟とブラウスの白の上、彼女の顎の線は幼い頃とはやはり違ってきているのに僕も気がついてはいた。
だけどこの動揺は何なのだ? 十六歳の響が、同年代の異性の子にとって異性としても見える。これはふつうのことであるはず。
けれどそういうことは、想定していなかった。おそらく、想定することから逃げてきた。
これはほんとうに、響を想うときつねに、その生の短かさの可能性を織り込んで考えてきた長い習慣の、ツケなのだ。
少年の名はまだ知らない。表情が生き生きとし、心の働きが活発なのが、わかる。
式次第が始まり、僕ら──響と連れ合い、僕とその名もまだ知らぬ少年も、大勢の在校生の方に向き直る。
こんなにひとりひとりいろいろな、けれど総じて困難とともにある子どもたちと、響はこれからをしばらく過ごすのだ。
友だちになってくれる誰かは、いるかな?
都市やその近郊では、中学校を卒業すると子どもたちは多くの場合別れ別れになる。
中高一貫校などでは別として。
地域の高校に行く子もいるだろう。電車に乗って遠くまで通う子もいるだろう。それはさびしいことでもありそうだが、生の盛りのその年代にとっては、すぐ忘れられることでもあるようだ。なにしろ高校なりでの新しい環境は彼ら彼女らにとってまるで全世界のようにひらけている。新たな友人、新たな時間に目も心も一杯。
そうだ、自分のその頃を想い出してみてもそうだったじゃないか。
けれどももし中学校時代やそのもっと前が懐かしくなれば、昔の友に連絡をとることもできる。通常は。
ある程度以上の知的な障碍や重複障害を持った子には、それがなかなか難しい。
だからひとつの場所から卒業していくことは、そこで出会った人たちとのほんとの別れであることが、多いと思う。
そんなことまで僕は気にして、不憫に思うことがあった。
響は、気にしていないようだった。いつになく背中をしっかりと立て、新しい場所に、新しく会った人たちと、いる。
生の盛りにある、ひとりとして。