春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート その4
この本がいまも生きているわけ
続き
幾度でも想い出すのだ。あの時の声音を。幼稚園に入園しようという頃から小学生になるまで、響はドキュメンタリーの取材を受けていた。彼女がこわがらないよう毎回同じカメラマン、ビデオエンジニア、記者のクルーで、数年間。そういうふうに仕事をするテレビ局員はあまりいないと思う。
生まれて初めての運動会。まっすぐに歩くことのできない響を、こっちよ、こっちと先生が掌を合わせて導いて、響はみんなよりちょっと短い「ひびちゃんコース」を完走する。「ひびちゃんがんばれ!」とさけんでいた園児たち保護者たちからまさに、万雷の拍手。
翌年の運動会。組み体操にも響は参加するが、体幹の弱さと握る力の弱さで、なかなか形にならない。だけどみんなは拍手。
お弁当の時間。彼女は実はこういうことを話していた。僕は覚えていない。カメラと音声がしっかり捉えていたので、後で知ったのだ。いや、聞いていなかったのではたぶんない。哀しく、しかし強い声を聴くのを僕の意識がかってにスキップしたのだ。
「うまく……できない」
「ねえ」
「ねえ、どうしたらいい?」
明るい笑いと興味津々の目。ふしぎな優しさのカーヴを描いた、そのときの口もと。そんな響しか見ていなかった。娘のこころを知ることを、願っていながら。
この言葉を映像で聴いたことが『障碍の児のこころ』を田中先生に書いていただこうと希ったことのひとつの伏線になっている。近しい者同士の心の見晴らしも、つなぐ人があって初めてひらける、ということもあるのだ。
二〇二一年三月に刊行された『関係を育てる心理臨床』(日本評論社)のなかで、田中先生は心理療法家としての仕事を「ひと区切り」すると表明している。しかし「この年齢で区切るのですから、戻るという方向は見えにくいように思います」とも。患者との別れはもちろんだが、後進の若い心理療法家たちにも不安は残るだろう。そこで「誰かがタナカ先生に相談したくなった時」「手にとってもらえたら」「ちょっと元気が出てくる」ように私の身代わりの本として残していけたら、とも。
『障碍の児のこころ』の再刊の計画を先生が喜んでくださったのは、ああ、そういうことだったのだ。この本はいま生まれたばかりの、あるいはこれから障碍と共に生まれてくる子どもたちにも、親たちにも社会にも、これからも届く。
そして子どもと子どもをとりまく人々とタナカ先生とを含んで、こころは動き育っていく。大きな、小さな、関係性のなかで。
いつまでも。
二〇二一年一〇月 響、二十歳の秋