春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート その6 -1
授業参観に行ってみた。
響は、自分より構音や構文が不明瞭な子と先生との繋ぎ役にもなっている。僕たちには聴き取れないことでも響には「わかる」そうだ。幼い頃から療育の場でさまざまな状況の子と居たからか、どのクラスメートに対してもまったく隔てるところがない。
幼時、障碍を持つ子とその保護者のための発達支援施設に通っていた頃には、響は明らかに「より動ける子」に憧れ、その後をついて回っていた。寝た姿勢のままの子の前は通り過ぎていた。哀しいけれどそれはそうだろう。幼児の関心はより動きのある方、興味を惹きやすい方に向かう。
ところがクラスの中での響は、それだけではないところで判断している。動いている。そこには理解と、意志というものが関わってきている。
嬉しいと思う。
親にとっては、と言ってしまうと限定しすぎかも知れない。「障碍を持つ自分たちの子」だけではなく「障碍のある人」の人生すべてという拡がりで、僕もまた気が煩うのだ。社会に、人間の性質にまだ実現されていないなにかが、気持ちに引き残るのだ。
それはもちろん、響の病状がいまの程度に留まることがまったく保証されていない、というよりそれはほぼ期待できない、という心配にも因るのだろう。
けれどそれだけでもないようだ。僕自身、幼い頃から、胸痛む境遇の人や生きもののことを知るたび、いつまでも心塞がらせている子どもだった。
どんなに悲しいことも、非道いことも制限なしに起こるこの世界ぜんたいに、漠然とした、しかしときに鋭い恐怖を以て対面していた。全部はまだ読めない新聞をながめながら、そこに報じられるとんでもない出来事に怖れ、あるいは憤っていた。
世界は不穏に過ぎる。このようであってはいけないのだ。
それが根底的な気分となって、生きてきた。
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