春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート
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悔しいのかな?
十数年来僕のカウンセラーをしてくれている田中千穂子先生*に、訊ねてみた。
*春 待つ こころ「その4 この本がいまも生きているわけ」参照
「知的な遅れもあり、身体コントロールもうまく行かないタイプの障碍児は他の子ができることを自分ができないことを、悔しく思ったり悲しく思ったりするんでしょうか?」
それはこれからの響を想う時、大事な問いだった。
田中先生はダウン症のお子さんなどの発達も診ていらっしゃるので、そういう疑問をぶつけてみたのだ。
「それはもちろん、悔しい、とか悲しい、ということばの形を取るとは限らないけれど、その子なりの感じ方でね」
「そうですか……」
「そしてその子なりに、理解して、受け容れていくことが、ほとんどだと思う」
いま、響は僕ら両親と共に、また他の障碍のある子どもたちと出会いながら、楽しく過ごしているとは思う。そこで彼女が否定的な扱いを受けることはない。
でも、いつかは彼女も、「普通であること」「できること」が幅を利かす社会に参加しなければならない。僕が例えばマイケル・ジャクソンであれば、響のネバーランドをどこかにつくって、優しく理解ある人たちだけを選抜して雇って(そんな空想・妄想を僕はしょっちゅうする)、この世間ではないところで彼女の一生を全うさせる仕組みをつくることも、わるくないとさえ僕は思っている。
何も「現実」の辛酸を舐めることは、長さの保障されていない響の人生にとっては、必要事ではない。
だけれど僕ら夫婦は普通の社会内存在なので、子どもの王国を空中に打ち樹てることなんてできなくて、できるのは僕らにとって響は特別だ、という思いを響に伝え続けることだけ。
それでいいのかも知れない。しかし、もし響が僕ら夫婦より長生きして、独りになったら、と考えることはおそろしい。かと言って、響の死を看取るのも、とても耐えられそうにない。
これがいま、未来の想像の中で、一番困ること。響の病気はこれからどんな展開をするのか全く分からないのだが、そのどちらかが起こるのは、確か。
でも、「やっぱり響を遺して死ぬ方が、心痛むね」、連れ合いは言う。
「続・歩くように 話すように 響くように」連載第6回より再録
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