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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅


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義の人はここに

そこで僕はふと、練馬区の力行(りっこう)幼稚園のことを思い出した。

大学に勤めていたころ、仕事で多くの幼稚園を訪ねたものだが、力行の中島良造先生は、最も好感を持った園長だった。一言で言うと、教育者然としていない。ガード下の焼き鳥屋で隣に座っていてもおかしくないおじさん、といった風情。表裏がなく、普通の話が普通に通じる自然な構えの人だと覚えていた。

行ってみて、事情を話す。響が部屋の中を見回す様子や遊ぶ様子を少し見ていた中島先生は「わかりました。来てください」。練馬区にある幼稚園だから、僕らの住む豊島区から一銭の補助金も出ないのだが、四の五の言わない。

「いま、障碍のあるお子さんが2人いまして、補助員が2人付いています。その2人で、3人を見ることにすれば、何とかなるでしょう。ねえ」

と、中島園長は、主任の角井美穂里先生の方を見る。
角井さんからも、ぜひうちで預かりましょう、という空気が伝わってくる。

実は角井さんは、僕がいた大学で卒業生向けの講義のようなことをしたとき──その時は響の病気の話をしたのだが──卒業生としてそこにいらして、響のことを知っていたのだ。力行幼稚園は大型の園で、地元でも人気があり、実は次年度は4歳児を採らないのだ。

「でも、特例で、とりあえず体験入園ということにしましょう」。

そして響がみんなのペースについて行けないからどうだとか、怪我させたらこうだとか、一切言わない。有り難い。これが、自分で責任を引き受けて判断するリーダーというものだ。

幼稚園には家から車で25分くらいかかるが、毎日僕が送り迎えをしよう。響が通う療育センターは板橋区ながらだいたい同じ方角にあるので、幼稚園の帰りに訓練を組み込んでもいい(でもそうすると、僕はいつ仕事をするのだ?)。

響の通う先が見つかって、ほっとした。
あの熱心で優しい人たちだったら、例えば発熱した園児が出たら朝僕らに一報を入れてもらう(そうしたら響は休む)とか、そういう仕組みづくりにも協力してくださるだろう。僕ら夫婦も、園や他の子どもの親たちと積極的に相談して、建設的な関係をつくろう。

ああ、こうして一歩、進んだ。

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第20 回より再録

―つづく―


「続・歩くように 話すように 響くように」

2006年3月20日~6月10日 中日・東京新聞夕刊文化面連載
より再録(データ等は当時のものです)。

ほりきり かずまさ はじめ編集者、つぎに教員になり、そうしながらも劇団「月夜果実店」で脚本を書き、演出をしてきた。いまや劇団はリモートで制作される空想のオペラ団・ラジオ団になっている。書いた本に『三〇代が読んだ「わだつみ」』『「30代後半」という病気』『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』『なぜ友は死に 俺は生きたのか』など。

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