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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅


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さよなら「とむとむ」

幼稚園に行くことが決まっても、「とむとむ」(豊島区役所 西部子ども家庭支援センター)に足場を残せないか、と考えた。

なんと言っても幼稚園は、いろいろな点で響より「強い」子の世界だ。疲れることもあるかも知れない。そんな時、とむとむに来て、ゆっくりとした時間も過ごせるといいのではないか。

だが、とむとむに入れるのを、待っている子たちがいるのがわかった。
やっぱり思い切って、幼稚園の毎日に全面的に飛び込ませよう。

とむとむに行かせようと朝出かけるとき響がぐずると、僕らは「(懐いている)磯部先生と遊べるよ」と誘う。響は「いそべせんせいあそぶ」と、乗り気になる。

とむとむでは、家にいるときの響より、少し大人になった響がいた。昼食を、こぼしながらも全部自分で食べたり、指示されて自分のタオルを取ってきたり、集まって、と言われると、椅子に座って待っていたり。

子どもが成長していくときには多くの出会いとともに、さまざまな別れがあるが、とむとむには、2歳になったころからずっと通ってきた。朝は僕が車で送り、午後には送迎バスで帰ってきた。寒い日も、暑い日も。その習慣も、今日で終わることになる。

そして、障碍のある子の親同士、大事なところは解り合った社会から、響と僕たちは、健常な子の世界に入っていくことになる。

新しいことの始まりの気負い立ちのようなものが、あった。

この間に、響の成長によって楽になったことって何だろう?
動き回るようになったから、転ばないように、刃物など危険なものに触らないように、高いところに登って落ちないように、かえって目は離せないようになった。

でも、そう、お風呂に入れるたびに思うのだが、以前は体が今よりふにゃふにゃで、湯船で顔が湯に漬からないように注意して、上がるときも、床に敷いておいたバスタオルに寝かせて拭いてやる必要があった。その間、僕は自分の体は拭けないし、冷える。けれど今は、立つようになったから、洗面台に掴まらせて立たせておいて、響と自分の体を交互に拭けるようになった。

ささいなことだけれど、そんなことに、月日の流れを感じる。
そして胸の血のほのかに温まる、希望のようなものも。

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第27回より再録


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