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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅


28
入園

4月10日、響、力行幼稚園に入園。
前の晩僕は、遠足の前日のような気分でよく眠れなかった。

入園式。自分が幼稚園児だった時代にはそうではなかったと思うのだが、お父さんたちもたくさん来ている。申し訳ないけれども子ども1人について保護者1人ぶんの席しかない、ということだったので、僕は響の表情が見えるようにずんずん前へ行って、舞台の袖近くに立って、見ている。

見ている。園服を着た響を、じっと。

勝手に走り回ったりしないかと心配していたが、担任になった先生に手を添えられて、だいたいはおとなしく座っている響。目をきらきらさせて、周囲を見回す。この規模の集団に入るのは、生まれて初めてだ。思えば。

20年近く前に亡くなった父の魂が、やってきたのがわかる。

そう、いま僕が響を見ている目は、かつて父が、幼い僕を見ていた目と、まったく同じなのだ。それをはっきりと感じる。人間の生と生とを隔てる時間との、ある種の和解が、僕の中で起こる。

幼稚園児だから式は短い。終えて、外へ出ると、春の光が明るい。樹々の緑は軽やかだ。障碍者用のカートに乗った響の園服の腕に、幼稚園のマークのアップリケが付いているのを、何か新鮮に感じる。

自分は組織に属したり、ましてや制服を着たりするのは好きではなかったはずなのにこの安堵感は何だろう?

「健常児」のグループに響が連なれたことに満足している? まさか。健常であろうとなかろうと、その子はその子。そのことをこそよく見なければならないはずだ。

自分の心の揺れを訝しみながら、しかし今日の午後は、常よりゆったりと流れる。

数日前まで響は微熱を出していて、小さな咳もしていたのだが、今回は微熱までで治まった。こういうラッキーなことはあまりない。
熱を出したら最後、やがて高熱になって、入院することになる。いつもは。

僕は響の額に自分の額をあててみる。探るように、じっとしている──不穏な感じの熱の芯はなく、子どもの、健康な体温だけが伝わってくる。

今日はいい日だ。

響! よくここまで来てくれたね!
そしてこれからも、元気でいてね。

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第28回より再録より再録

―つづく―


ずっと後に思ったこと・少し

25の項で、「響はミトコンドリア病の子どもとしては例外的に元気」と書き、他の病型などではもっと深刻な様相になることもある、と書いた。当時は、どうしてもそう思おうとしていたのかも知れない、響はちょっと、例外なんだ、と。

その後の年月で、だんだん分かってくることになる。ミトコンドリア病は類型にまとめようとするのがほとんど空しいわざ、と思うほど多様、みんな違う、ということが。

そして思春期のある時、響はこれまでにない危機を迎えるのだが、そこにはMERASのタイプの症状も、関係なくはなかった。

14年前のその日、医師と患者・家族の会では、MERASに対してあるアミノ酸の大量投与が有効、かも知れないという話も発表されていた。その時は「うちの子にはあまり関係ないのかな」と聞き流していた。

だがこの発見は時を経て、危機の響に、思いがけず、ものすごく決定的に関係してくることになる。

難病の治療をめぐるほとんど果てしのない努力は、いつか、例えばそんなふうに効いてくるのだ。

(堀切和雅)

ほりきり かずまさ はじめ編集者、つぎに教員になり、そうしながらも劇団「月夜果実店」で脚本を書き、演出をしてきた。いまや劇団はリモートで制作される空想のオペラ団・ラジオ団になっている。書いた本に『三〇代が読んだ「わだつみ」』『「30代後半」という病気』『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』『なぜ友は死に 俺は生きたのか』など。

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