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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅

ここまでの歩み 編  – その10 –

難病のミトコンドリア病をもつ僕の娘、響の高校入学式から始めた本連載。その彼女がこれまでどのように生きてきたのか、まず知っていただきたい。生まれてから4歳近くでようやく立って歩き出すまでのことは、2005年7月4日~9月30日「東京新聞」「中日新聞」夕刊連載「歩くように 話すように 響くように」、それを書籍化した『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』(2006年、集英社新書)にある。その翌年の同紙連載「続・歩くように 話すように 響くように」(2006年3月20日~6月10 日)全64回を、「ここまでの歩み編」としてここに再録する。その10は、新聞連載の第33 ~36 回(データ等は当時のものです)。


33
僕らも子どもだったのだ

千葉県に独り暮らす老母が、いよいよ調子を崩した。もともと心配性だったところにパーキンソン病を思わせる手の震えや歩きづらさが重なってきて、老人性の鬱状態になった。

僕たちの住む東京に通院させて、診察には付き添って飲んでいる薬なども把握しておく、ということにしていたのだが、もう東京に電車で来る自信がなくなったと言う。
実際足許も危ない。通院の日には、僕が早朝迎えに行って、連れ合いが医師の話を母と一緒に聞き(その間に僕は響のお守りまたは幼稚園への送り迎えをする)、帰りも千葉の家まで車で送る、という生活になった。当然、仕事ができる時間が、ますます削られる。

鬱のせいなのかこちらの言葉もろくに耳に入らず、毎回の繰り言を百遍も繰り返す(ほんとに)ので、鬱状態の人には無理を言っても仕方がない、本人も辛いんだと知りながら僕の言葉も苛立ちを帯びてしまう。母親は、まるで子どものように、判断力を失っている。

食事をさせてから送り届けないと碌に食べないからいったん僕らの家に連れ帰って宅配の鮨を取って食べさせるが、その横で響は遊び食べをして口から飯粒を吹き出している。叱っても聞かない。
「ひどい状況だな」と思いながら連れ合いともども座布団や絨毯に付いた飯粒を剥がし、「子どものために親はこんなことまでするんだな」と思う。

そんな煩いのなかった独身や新婚のころは遠い。
ふと、「僕(と妹)が子どものころにもこういうことした?」と母に訊いてみる。
「う……ん。したね」

一緒に暮らさねばと思うが東京を離れれば頼れる主治医と恵まれた訓練の便を響は失う。都内に集合住宅のもうひと部屋を買うなり借りるなりして、母のケアにも目が、手が届くようにしたいが、そこまでの資力はもちろんない。

千葉にまた連れ帰る車の中で、いろいろな考えや思い出が浮かんでは消える。古びた、自分も育った家に母を送り届け、真っ暗だった部屋の灯りを点け石油ストーブに灯油を補給しておく。

あとは帰るだけだが、もうひどい状況への当てのない怒りは消えていて、
「僕と妹を産み育ててくれてありがとう」
という意味の言葉を、返事は望外のものとして、痩せさらばえた母の背中にかけることができる。

これも響を育ててきたおかげだ。

 

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第33回より再録


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