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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅


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本格的に歯を折る

入園前の休みのうちに、響にそり遊びを体験させてあげたいと思った。去年まではスキー場に連れて行くなんて、感染が心配で想像の外だったが、この冬は幸運にも風邪で入院することがなかったので、僕らは少し大胆になっていた。
4月のスキー場なら風邪の人はいなさそうだし、空いているだろう。

新潟方面に向かって家から180kmくらい走った横川のサービスエリアで休憩。さかんに歩き回りたがる響の、方向を定めることはできない。彼女のすぐ後ろに従いて、よほどの危険の時はさっと抱き上げる。

響は、授乳室の扉を自分で開けて入って行き、おむつ替え用の台に登ってしまった。そこで足をぶらぶらさせて遊んでいる。「降りなさい!」と言ってはみるものの「エヘヘ」と笑うだけで響は降りない。「いまたのしいからっ!」

落ちないかな、と監視しつつ、気が逸れた一瞬、落ちた。落ちながら、目の前にあった柱の角に顔をぶつけた。血まみれの口内を確認するのと、床に落ちた白い歯を拾うのと、どっちが先だったかうまく思い出せない。
まさに、以前にも東京女子医大病院の廊下で転んでぐらぐらになったその前歯。

歯科に急ぐしかないが、ミトコンドリア病の患者には使うとまずい薬があったりするので、女子医大の歯科に電話した。

「歯、どうやって持っていったらいいでしょう?」
「できたら生理食塩水に漬けて」

ということだったが、塩は手に入らず(いま思えばレストランなりの調理場に聞けばよかった。サービスエリアなんだから)、ペットボトルの水に歯を入れ、いま来た道を東京へ。響を痛い目に遭わせてしまったと後悔に手が震えるが、運転は慎重に。
やっと着いた女子医大の歯科では、

「綺麗に抜けちゃってますね」
「補綴の方法は?」
「特にないんです」

というわけで、その日から響は歯欠け娘となった。ちょっとした不注意から、貴重な玉瑠璃の壺を毀してしまったようなぞわぞわした気分。真珠のような上品な笑顔から、いかにもガキんちょの笑顔に響はなってしまった。

え? 歯をどうしたかって?
うちは集合住宅で庭がないから、埋めるにも困るでしょう。最上階じゃないから投げる屋根もない。かと言って、ゴミ箱に捨てる気にもなれない。
その名も「千年の響」という銘柄の泡盛の古酒を買ってきて、そこに漬けた。
変ですか?

 

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第35回より再録


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