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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅


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四歳のこころ

人間の、原初的・基本的感情は「快」なのではないか。
これは、比較文化精神医学者の野田正彰さんに聞いたこと。彼はニューギニア高地人や中国奥地などの「孤立した」(産業文明から遠い)社会の調査経験を持つのだが、そこでは大人も遊び、子どもはよく笑い、「暗い見通し」なんて先取りして考えることはあまりない、と言う。

響を見ていると、この本来的な感情としての「快」を思う。もちろん少しでも気に入らないことがあると「いいかげんにしてくれー」と思うほどギャーギャー泣き叫ぶのだが、何かのきっかけで「すっ」と笑顔に戻る。笑顔が基本で、世界は面白いものやことに満ちていて、不安はあまりないのだ。

そもそも彼女は「死」なんてことも知らない(実は誰も、知らないのだが)。したがって、「どうしても生きたい」などと、先のことを具体的に考えることもしない。この点で、もっと分別のついた年齢の、例えば小児がんの子と親などは、僕らとはまた別の大きな課題を背負うことになるのだろう。

響の場合は、なるべく「快」を共に多くと緩く構えながら、いまは躾をどうするべきかわからないまま育てている。
「怒られている」ということがどうも、彼女には分かっていない節があるのだ。
それと、他者に対する思いやりも、あるいは自他の区別も、はっきりあるのかどうか。
もしかしたら「心の理論」(Theory of Mind=他者の思いを推し量る能力)が育っていないのでは? と不安だ。

彼女は「バシッ」と言って僕らの顔をぶったり、「キック!」と叫んで寝ている僕の顔を蹴ったりするのだが、「痛いでしょ! やめなさい!」といくら言ってもやめない。
遊んでいるつもりで、笑っている。

でも、連れ合いがどこかを痛めると、「ママ痛いの?」「バンソウコウ」「いたいの飛んでけ!」などなど幼くやさしい声で言っている。もしかしたら模倣にすぎないのかも知れないのだが、模倣から心が育ち始める、ということもありそうに思う。

何より身に沁みるのは「だいじょうぶだよパパ」。
これは確実に、僕が現世的なことで物憂い思いをしているときに言う。そして実際に、僕の周りの世界は「すっ」と明るむ。
響の意はどうあれ、ここでは、心が動いている。
響き合っている。
むしろ、心とはそのときそこで、生まれるもの。

 

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第51回より再録


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