春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート
54
永遠の時間
テレビには「サザエさん」が映っていて、波平が「バカモノーッ!」と叱っている。
響は「女の子座り」になって、見ている。
こういう瞬間は前にもあった、と既視感が襲う。うちは子ども番組をハードディスクに録画して響の言うままに何度でも繰り返し見せているから、実際これに似た場面は何度かあったのかも知れない。
サザエさんの世界では誰も齢をとらない。数十年にわたって存続する漫画の中で、永遠がその威力を誇っている。
逆に、無限に繰り返される円環ではなくこの一瞬の中に永遠が、爆縮的な密度で詰まっているというミニマルな永遠の仮説を、僕はもっている。
それは僕が若いころに亡くなった父をめぐって。戦争の時代の父と、息子だからさして語り合うこともないまま父は存在をやめたのだが、父と僕とは生きている時間を一度は共有したのだ、と後になって僕は痛感した。父は今や存在しないが、父と僕は会った。「だからいつも会っているのさ」という飛躍した理屈。
飛躍しているが真実でもある。いつか僕も存在をやめるわけだが、この宇宙の永遠同然の時間の中で、お互いの存在する時間が僅か重なったという事実だけは、消えない。
僕と連れ合いと響はこれを書いているいまこの瞬間、晩い午後を共に過ごしているが、確実なところで言えば例えば数千万年後にはその事実は跡形もない。
しかしそれでもいま、僕と連れ合いと響が共に過ごしていることは否定しようも動かしようもない、極度に堅固な事実なのだ。いま、響の笑顔を見る、いま響を抱く、いま三人でごはんを食べている……すべての瞬間に、永遠が詰まっている。なぜなら僕らは「いま」しか持っていないのだから。
「だからすべて持っているのさ」
「続・歩くように 話すように 響くように」連載第54回より再録
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