サムルノリへの旅 その1
田正彦さんとハバナムーン
1980年代、新宿ゴールデン街にそのバーはあった。ゴールデン街といっても、「狭い路地に飲み屋がひしめき合う横町のイメージ」とは違った、花園神社との間のやや広い道沿いの、雑居ビル内の「ハバナムーン」。ドアを開けると、「おう、かをり。ちょっと太ったんじゃないのか」と、笑いながらも丸い眼鏡の奥から鋭い眼光を発して田ちゃんが迎えてくれる。田(でん)ちゃんこと田正彦(でんまさひこ/チョンジョンオン)さんは、私の人生初の「在日」の友だちだった。
私は1980年に初めて行ったかと思う。即興打楽器奏者の風巻隆さんが連れてきてくれたと記憶している。バンドとして何度か出演していた、後に地下音楽シーンの伝説となるライブハウス「吉祥寺マイナー」も無くなり、行き場を探していたわけではないが、どこか所在ない私にとって、ハバナムーンの常連客はすでに顔なじみが何人も飲んでいるような不思議な飲み屋だった。
いつも目が合うとにこっとする竹田賢一さん*1は大正琴奏者で編集者、首をかしげて照れたような困ったような笑みをたたえる工藤冬里さん*2は実験音楽バンド「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」のリーダー、「大駱駝艦」出身の舞踏家の宇野萬さん*3、ギタリストの石渡明廣さん*4、後に劇団「時々自動」を結成する今井次郎さん*5、ハバナのアルバイトの野方攝さん*6は「コクシネル」のボーカル、テント芝居「風の旅団」*7の桜井大造さんや池内文平さん、雑誌「HEAVEN」の編集長・佐内順一郎さん、ハバナに通っている頃、後に海外にまで有名になるパンクバンドを結成した横山Sakeviくん*8…… 数え上げればきりがない。
ボトルキープ流れのウイスキーを集めた陶器の白いボトルがカウンターにあり、貧乏なアーティストだけがそれを飲むのを許された(通称「救済ボトル」)。それ目当てに来る私とあと数人。余裕のある人はその貧乏アーティストにおごる。行けばいつも誰か知り合いがいる。そんな包容力と安心感がそこにはあった。
サブカルチャーとか、時代の文化とか、過ぎた後で誰かが分析したり命名したりするものだ。だがそのリアルな時を生きた者には、出会う人々、酒を酌み交わし、笑い合い、時には口角泡飛ばして論争もし、なにか面白いことはできないかと企てる、その空間そのものだ。それ以上でも以下でもない。その交わりの中から生まれた、後に伝説となったイベント*9や作品たち、有名になった人や出来事……それを、さかのぼり何かを語ろうとする他者によって、それは「カルチャー」となっていく。ハバナムーンもそんな一つだったと思う。
ハバナムーンのオーナーは伊藤恵子さん。小さな体で声の大きい、パワーあふれる「ぶっとんだ」女性で、酔っぱらうと誰かれ構わず説教垂れる。
*1 竹田賢一:『同時代音楽』編集者、音楽評論家、大正琴奏者。
*2 工藤冬里:陶芸家、作曲家、演奏家。「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」を率いる。
*3 宇野萬:舞踏家、演出家。大駱駝艦出身。故人。
*4 石渡明廣:ギタリスト。現渋さ知らズ。
*5 今井次郎:演出家、俳優、演奏家、作曲家。前衛劇団「時々自動」主催。故人。
*6 野方攝:バンド「コクシネル」のボーカル。
*7 風の旅団:現テント芝居劇団「野戦の月」
*8 横山Sakevi:伝説的ハードコアパンクバンド「G.I.S.M.」のボーカル
*9 「天国注射」シリーズなど。特に有名なのは、ハバナムーンと自販機雑誌『HEAVEN』が共催した日比谷野外音楽堂の「天国注射の昼」。国内有数の前衛的なインディーズロックバンドが一堂に集結した歴史的なイベントタイトルとして知られている。