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『ひらけ!モトム』によせて

上田さんの歴代介助者のトーク

その2

決してひとりで生きてきたわけではなく

—ロマンではなく実践

岩下:
それがきっかけで及川さんは演劇の世界に本格的に入っていかれたっていうことなんですかね?

及川:
大きなきっかけにはなりましたね。実際に私が黒テントに入ったのは1983年ですけども。さっき「みんなの広場」の映像がありましたけど、その中で出てた林君が私と同い年なんです。彼も黒テントの演劇教室にいて、黒テントの制作のお手伝いのメンバーでして、黒テントが世田谷で公演するっていったときに、私と同じように彼もちょうど世田谷に通い出したんです。

岩下:
その林さんというのが上田さんの第一号の介助者で、及川さんが第二号の介助者になるんですよね。

及川:
第一号とか第二号とかは(笑)。どっちが先かということでしかなかったんですけども、林君はもともといろんなところで演劇もやってたんですけど、どちらかというと演劇だけじゃなくていろんな社会運動に興味を持っていて、当時三里塚の運動(成田空港建設反対闘争)にも関わりつつ、「みんなの広場」でも三里塚から野菜をもってきて売ってたりとかですね、演劇と運動的なことを結び付けたいということを彼はずっと模索してたんですけどね。

岩下:
なるほど。林忍さんについての話をしてほしいというリクエストが上田さんからあったんですけど、林さんがどんな方だったのかとか、詳しくお話いただけますか?

及川:
なんだろう。彼は本当にいろいろ実践するタイプの人で、いろんな運動的なことを積極的にやっていった人ではあったんですけどね。やっぱりどうしても運動っていうと理論的なことが先行しちゃうんだけど、彼は自分でちゃんと実践していった。

そのひとつとして「みんなの広場」という形で、単にロマンだけを語るんじゃなくて、地域の中で自分たちの活動をちゃんと展開していくと、そういった地道な活動をやろうとして、それをちゃんと実践していたということですよね。そういう意味で、彼33だったかな、若くして亡くなったのが。

岩下:
「みんなの広場」をやっている途中でしたね。

及川:
私自身は黒テントの活動に入っちゃったので、「みんなの広場」に直接的には関わってないんですけど、たまに上田さんの介助に入ったときには店のほうに行ってたんですけどね。

岩下:
そうだったんですね。先ほどの映像見ても、上田さんにとっても居場所であり生活の場であり社会とつながる場でもあったのかなと感じながら見てたんです

そうですね、よく3人で喧嘩したのはよく覚えてますね。いろいろ言い合ってですね。介助のこととか店の運営についてですね、いつも議論したりしたりとかして。時々その喧嘩してる最中に私なんかも行ったりしたんですけどね。

林君も上田さんも五月女さんもそれぞれこだわりが強かったので、そういう意味では面白い場所ではありましたね。

—運命共同体としての「みんなの広場」

岩下:
そうだったんですね、ありがとうございます。上田さん一言何かありますか?

上田:
五月女精子さんがこの本を読んで感想をくれたんですけど。本の中で、僕が「みんなの広場」のメンバーを運命共同体みたいに感じていたと言ってて、それをすごい喜んでくれて。彼女曰く、胸がキュンと締まったという感想をくれました。

林君が途中で亡くなった後、一年頑張ったんですけど、残念ながら閉めざるを得なくなったんです。まさに誰が欠けても続けられなかったと思います。近所の精神障害の方とかが一緒にお手伝いしてくれてた。女性たち、何人かいるんですけど、みんな障害を持ってる方たちが一緒に仕事してた、ということも含めて、まさに運命共同体だったのかなと感じてます。

岩下:
そうだったんですね。その話はぼくも初めて伺いましたが、とても興味深いお話ですね。

上田:
たったの5年間でしたけど、ほんとに濃い5年間でした。

つづく

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