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『ひらけ!モトム』によせて

上田さんの歴代介助者のトーク

その2

決してひとりで生きてきたわけではなく

岩下:
ありがとうございます。まだまだ話したいんですけど、時間が差し迫っているので、もうひとつ、バス乗車拒否と「バス壁」(障害者の交通権を求め、バス乗車の壁をなくす会)*2の運動について中村さんからお話をこれから伺っていきたいと思っています。

中村さん、当時どんな活動をしていたのか、話していただけますか。

-バス乗車拒否の衝撃

中村:
そんなにクリアに覚えているわけではないんですけど(笑)。ぼくが大学入って上田さんの介助に入り始めたのが1993年。ちょうどその前の年にバスの乗車拒否に合って、ということがありました。昔のことならまだしも、90年代になってバス乗車を拒否されるようなことがあるんだろうか、とすごく衝撃に残ったのを覚えています。

ちょうど「ぼらんたす」で、サークル活動の中でも介助に行くほかに勉強会というか読書会みたいなのをやったりしていました。それこそ『生の技法』*3とか、ああいう本を一緒に読んだりとか、障害者の置かれてる現状、これまでどういう形で障害者運動というのが展開されてきたのか、今どういうような状況にあるのか、みたいなことを学びながら介助もやっていたということもありました。

なのでぼくだけじゃなくほかのサークルのメンバーも、「バス壁」の活動に参加していろいろ行政との交渉だったり、あるいは東急バスとの交渉とかに参加したり、どういうことをやっていけばいいのかという打ち合わせとか会議をしてたのを覚えています。

—介助者と障害者の非対称性

中村:
あとは、やっぱり印象的だったのは、この本の中でもちょっと出てくる、山田圭さんっていうサークルの先輩ですね。けっこうヌシみたいな感じ、けっこう髪も長くて、ぱっと見ちょっとただ者じゃないなっていう感じの先輩もかなり中心的に関わっていました。

当時はかなり、先ほどの黒テントもそうかなと思うんですけど、運動とか社会の問題提起みたいな感じが非常に強かったなと思ってます。「ぼらんたす」としても、特にボランティアという言葉はあんまり前面に出してなかったし、ボランティアみたいな関わり方っていうようなことに対して違和感みたいなものはありつつ、活動していました。

当時ちょっと議論してたので覚えているんですが、ボランティアとして介助に入る学生側は自由意志でやってもいいしやらなくてもいいし、というような活動である。

一方で障害者の自立生活は、生活していく上で24時間介助が絶対必要で、当然生きていく上での権利として必要なものとであると。この自立生活とボランティアとの非対称的な関係っていうものをどう考えていけばいいのかみたいな、そんなことも考えながら、その一環としてバス壁の活動とかにも関わっていたなあというのを思い出しました。

中村:
ちなみに岩下さんって、介助に入ってた時って、時給っていくらくらいでしたか?

岩下:
時給は、1200円弱が固定給で、プラスアルファで夜勤手当が出てましたね。15%か20%追加っていう感じでした。

中村:
ちょうどぼくらが大学生だったときは、上田さんのところで24時間介助料が出てなかったということもあって、一定の介助用の行政から支給されてる額から「ハンズ」(自立生活センターHANDS世田谷*4。障害当事者による介助者派遣事業所)に払う分を出して、あと交通費を出して、残りを時間で割るみたいな感じで、結構月によって100円台とかだったり、介助先によっては2ケタだったりみたいな感じでしたので、かなりだいぶ置かれていた状況は違ったなあと。

つづく

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