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『ひらけ!モトム』によせて

上田さんの歴代介助者のトーク

その2

決してひとりで生きてきたわけではなく

—普通の介助と社会運動

岩下:
そうですね。そのあたりも含めて、さきほど行っても行かなくてもいいボランティアと、来てもらわないと困る障害者の非対称性みたいな話もありましたけど、中村さんとしてはどう介助者として関わってらっしゃったんですか?

中村:
具体的に介助に入ってたときは、そんなに深いことを考えていたわけではないと思うんですけど(笑)

1995年に阪神淡路大震災があって、そこからけっこうボランティアブームみたいなものが急激に広がってきて、ボランティアに興味を持つ人が増えてきたのかなあという感じがありました。「ぼらんたす」に参加してくるメンバーも、さっきの山田圭さんのような極めて濃い世代や、そのちょっと上の世代には濃い人も、普通に大学を出て役所に勤めたり官僚になったりする人もいたんですけど、95年くらいからは一気に入が増えて、ボランティアというのが、ものすごく普通の活動というか、普通の選択肢になったなあという感じがありました。

それに対してかなりアンビバレントというか、いいことだなと思う一方で、それでいいのかなっていう、両義的な思いを抱えていたなあと。

なので、新歓のタテカンを出すときに、「「ぼらんたす」はボランティアサークルではありません」っていう、パッと見て「なんだろうこれ」みたいなタテカンを出したりとか、あるいは障害者プロレスをやったりとか、ちょっと社会への問題提起みたいなことを意識しながら活動してたなあと思い出しました。

岩下:
中村さんは、けっこう過渡期に介助者として携わってらっしゃったっていう感じなんですかね。

中村:
そういう感じかなあと思います。

岩下:
実際には何年までされてたんですか?

中村:
大学院に行くころから介助に入る頻度は減って、でも多少は入って、という感じでした。ぼくは1997年に大学院に行って、99年、2000年くらいから留学したりしていたので、たぶんその前くらいまで、90年代終わりくらいまでかなあと思います。

岩下:
じゃあ、まさに阪神淡路大震災を境とする過渡期に立ち合っていたた感じなんですね。

中村:
そんな感じかなあと思います。

—障害から共通の問題が見えてくる

岩下:
「バス壁」の最初は、リフトバスの導入の運動から始まって、そのあとリフトバスでは障害者の車いすの人は使えるけれど、杖をついたご高齢の方や、ベビーカーの方は使えないという現実を目の当たりにして、ノンステップバスじゃなきゃダメだ、ということになって、運動が展開していったと思うんですけど、中村さんとしては、そのあたりもけっこう問題意識をもって関わっていらっしゃったっていうことなんですかね。

中村:
障害者だけの問題ではなくて、やっぱり、障害を抱えていると問題が非常に見えやすくなるけれども、そうでない人たちにとっても共通の問題なんだ、ということを関わりながら学んでいった感じなんだろうなと思います。

—介助を通した社会へのアプローチ

岩下:
なるほど、ありがとうございます。上田さん何か、質問だったりコメントだったりありますか?

上田:
社会に対してのアプローチっていうのを、介助を通して見てもらえたかなと思ってます。その中では、「交通弱者」という言葉があるように、高齢者、子ども、お母さんたち、誰にとってもいいものを求めていこう、というのが僕の場合の視点でもあったので、そういう中でいろいろ動いていました。最初は僕の乗車拒否がきっかけだったのですが、とりあえず、社会全体がノンステップバス、という完結はしてないけど、僕なりの形での完結ができたかなと思います。

1992年に乗車拒否を受けて、20年後くらいに、同じ渋谷の南口で上町行きのバスに乗ったんです。ふと見たら、ほぼ100%、バスターミナルに止まってるバスがノンステップになってたわけですよ。それを見て、すごい感慨深いものを感じて、こんな感慨を持てる俺って幸せなのかなと改めて感じています。

岩下:
ありがとうございます。ぼくも全然そういうノンステップバスの背景を知らずに、小学生のころからノンステップバスに乗っていて、すごく身近な存在だったんですけど、上田さんの活動とか、バス乗車拒否などの背景があって生まれてきたというか、走るようになったんだなあと初めて知ったときは衝撃を受けました。

つづく

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