いただきもの おすそわけ その4
にしんの山椒漬け
- 青葉山での採集暮らしとよそ者の《風土》-
[引用つづき]
会津のものとして更に語らねばならぬものを二、三添えましょう。本郷という町は焼物でその名を高めました。磁器も陶器も共に作ります。大体北国には磁土が少いのでありますが、ここの茶器、とくに急須の如きは販路を広めました。しかし出来上った品から見ますと、実は一番人々から粗末に扱われているいわゆる「粗物」と蔑まれているものが、最も特色のあるまた見事なものだと評さねばなりません。今はこの「粗物」を焼く窯がたった一つより残りませんが、白釉のものと飴釉のものと二通で作ります。これに緑釉を流したり海鼠釉を垂らしたりして景色を添えます。緑の方は銅から取り海鼠の方は鉄から取る青味の色をいいます。ここで出来る長方型の「鰊鉢」や、「切立」と呼ぶ甕の如きは、他の窯に例がありません。本郷の仕事としては、どこまでもこの粗物類を大切に続けるべきでありましょう。この窯では一番健康な仕事であります。若松から程遠くないところに喜多方の町がありますが、ここでは良い生漉の紙が出来ます。材料は凡て楮で強い張りのある紙であります。大体福島県は紙漉の村が多いのでありまして、岩代の国では伊達郡山舟生や安達郡の上および下の川崎村や耶麻郡熱塩村の日中。磐城の国では相馬郡の信田沢、石城郡の深山田の如き名を挙げねばならぬでありましょう。昔から「磐城紙」の名で知られます。
会津の山々は雪の多いところとて、藁で出来た雪踏や雪沓や、曲木の樏や形の面白いのを見かけますが、かかる品を求めるには一番山奥の檜枝岐を訪ねるに如くはありません。もう尾瀬沼に近い随分不便な村ですが、ここで色々面白い品に廻り会います。手彫の刳鉢や曲物の手桶や、風雅な趣きさえ感じます。特にここで出来る蓑は大変特色があって、背を総々とした葡萄皮で作り腰を山芝で編みます。裏側が美しい網になっていて見事な手仕事であります。纏っているのを背から眺めますと、活きた熊でも動いているように見えます。(柳宗悦『手仕事の日本』岩波文庫、1985年)
他の地域から会津に移住したひとが最初に受けるショックは、その皮膚化されたともいうべき歴史感覚だ。「この前の戦争」と言われれば、もちろん当地では戊辰戦争である。観光地の売店では白虎隊の小旗や提灯や木刀が売られており、「戊辰戦争」という演出的日常が身近にある。わたしもご多分に洩れず、小学6年生の修学旅行で会津にを訪れ、白虎隊の演舞を観て涙を流し、木刀を弟のお土産に買って帰ったんである。しかし、そんなことは会津に暮らそうと思うなら、ある程度は分かっていることだ。
社会学に取り組む学生なら、「会津」のアイデンティティ形成やら、白虎隊にまつわる言説収集やら観光戦略にいたるまで、作文のテーマは山のようにありそうだ。
しかし、それよりも私にとってショックだったこと……。
会津に引越したばかりの頃、父と母が新しい住まいを見に来たことがあった。引越し祝いに何か美味しいものを食べようということになり、会津の郷土料理の老舗割烹へ入った。古民家風の座敷に通され、やがてお膳が運ばれて来たのだが、そのお膳に載せられていた「棒たら煮」を見て、父は無言になり、なんと箸を置いてしまったのである。
私はこの時はじめて、自分が海のない土地にはじめて暮らすことに気がついたのだった。私は、メザシやサバのような一夜干し、スルメを別にすれば、カチコチに干した魚というものを、この時まで食べたことがなかった。棒たら煮の舌触りは、私が知っている三陸のタラのそれとは全然違っていた。甘じょっぱい、おそろしく濃い味のタラだった。それが、会津に来てはじめて受けた衝撃だった。それからしばらくの間、「会津には海がないから、三陸のように美味しい魚はないのだ」、という自文化中心主義的な印象がつきまとった。しかし、その偏見を覆したのが、「にしんの山椒漬け」だったんである。
くどいようで、またまた恐縮だが、もう一度柳宗悦の、こんどは「東北」についての引用だ。
東北は日本本土の北に位しますから、気候が寒く、ある個所は半年近くも雪に被われます。こういう自然の障害があります上に、中央の都からは遠い国々でありますから、交通も大変不便でありました。そのため新しい文化を取り入れることが遅れたのは止むを得ません。自然の強い力に抑えられたり、進んだ施設に乏しかったりすることは、人々の生活をも気持ちをも重くしました。さなきだに時として烈しい雪や雨やまたは旱などが続いて、災害を被ることが度々であります。こういう事情は東北人を貧乏にさせ、その働きをにぶらせました。そうしてこれが奥羽というと何か暗い気持ちを伴わせる原因となり、北の雪国は貧しい地方だという聯想を誰の胸にも刻ませました。実際それらの国の生活はなま易しいものではありません。
[つづく]