ジグ日記 | 出版舎ジグ

けありんぐ・・・20220205

11月14日に「その1」を書いた、下北沢ボーナストラックでの「けありんぐ・のーべんばー」、その片隅で出店。風が冷たくて寒かったけれど、お隣にはタバブックス、お向かいには本屋・生活綴方、という素敵なみなさんがいて、さほど忙しくないなか、すこし交流もできたり。立ち止まって本を手にとって、幾人かはご購入、幾人かはクッキーご購入、幾人かはお話しだけ、という感じで「風が冷たくて寒い」以外はゆるくのんびりした時間で終了した。

その日から2ヶ月が飛び去って、現在2022年2月。

実はこの間、進めようとワクワクしていた話がなぜかすべて同時に行き詰まって呆然としていた日々があり、その理由をあれこれ考え込んでしまった日々があった。「書きたいことを」「書いてもらう」ことは、本当に難しい、その難しさを改めて思い知る。

そのうちにオミクロンがそろりと増え始め、あれよあれよと言う間に会社の期末決算報告と「受験勉強」でいっぱいいっぱいになった。高齢者施設にいる大好きな義父と一緒に食べられない「おせち」なら「おせち」じゃないとばかり、「正月」の気分にもならず、家族全員が適当な「正月」もさっさと通過したあとは、過去問をぐるぐるまわし、一問一答ワークブックに色ペンを塗りたくったりしていた。それも2月5日でひとくぎり、そこでジグ日記再開。

2月5日は、第24回精神保健福祉士国家試験日だった。

社会福祉士資格国家試験はコロナの最初の日々だったことを思い出す。
ひとつ資格を取ったことで履修実習も受験科目も少なくすむ。だからついでに、というよりは、もうすこし理由はあった。

なんらかの「精神領域」の「専門知」的な備え or 構えなしには、今後いっそうしんどい領域に、「相談支援業務」が入っていくだろう、という予感があったからだ。

福祉とかソーシャルワークの仕事をゲットする国家資格というより、「人が、誰かに助けて欲しいと思ったときに相談していい相手」であることを保証する資格の安定感がほしかったとも言える。

考えてみれば、それを「国家」「資格」に求めるのはおかしな事かもしれない。だがしかし、私ではなくて社会が、その相談を受けとめる必要があるんだから、そのための制度だからと思い直す。とりあえず、いまの社会の、いま可能な「だいじょうぶ」枠で補強してもらうのだ。

2月5日の140分80問は、5者1択ないし2択。

「この場面での支援として適切なものを2つ選びなさい」
「援助技術として適切なものを1つ選びなさい」
「この時点でKさんにかけた言葉として適切なものを1つ選びなさい」

等々を、ずんずんと1択ないし2択していく。現実は1択や2択じゃないし5つも選択肢があることはまずないし、と思いながらも、「だいじょうぶ」な世界の風景をイメージすることに専念して試験を終えた。

こんなふうに正解が用意されていない、気づかれていない、とても激しくとても静かな悲鳴や、激しすぎて静かすぎる怒りが、もうそこら中に渦まいているのを日々感じる。

それはとても怖いことで、その怖がる自分に喝を入れるため、私は受験なんぞをやっているんだ。本を作ることにも、これで喝をいれているつもりでいる。

試験のあとは久しぶりに試験と関係ない本を読み、試験と関係無い映画をみた。

本は『物語としてのケア』。ナラティヴ・アプローチの世界へ、というサブタイトルのついている、医学書院。去年、信田さよ子さんの本をまとめて読み返したときにこれも読もうと思って試験明けの本にとっておいたのだ。「「ひとびと」と「問題」を切り離すことは、それを対等な存在としてとらえる視点をもたらす。」対等な存在、というフレーズがいいな。「それ」と渡り合えそうで。

映画のほうは、マット・デイモン。まったくマット・デイモンに見えない元アル中で元薬中のオクラホマ親父が、知的で自立心があって、それゆえにオクラホマから出来るかぎり遠くの美しい冷酷なものに恋し、結果破滅した娘を、救わなければともがく物語。それぞれがもっている希望というか夢が切実で、登場するすべての人物の夢は夢見たようには実らず、握りしめた結果、当然に砕け、別の希望に近いけれど違うなにかがもたらされる。

怖がっていることは正しい。怖がっている者のほうが知っている、と試験から解放されて心地よく疲労した。ケアはケアという言葉では呼ばれない場に、ニーズも働きもうごめいている。

(ジグ日記はつづきます)

 

トム・マッカーシー監督「スティルウォーター」

野口裕二『物語としてのケア:ナラティヴ・アプローチの世界へ』医学書院、2002年

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