ジグ日記 | 出版舎ジグ

夏から止まっていた理由・それを脱出できそうな理由

2023年の7月くらいから、サイトの更新がパタリとできなくなった。

書いてもらった文章をやりとりして、読む人がなんらかを受け取るように「最初の読み手」をやる、という役割が辛くなった。

なんの方向性もルールもなく書きたいから書くという行為を疑いはじめていた。書かれたものが世界に占める位置、その位置に来て/招かれて読む人が何を受け取るかは想い描きもしないんじゃないか、とっちらかりをまとめて自分が着地するために、うまいぐあいに、ありがたがって受け取る人(つまり編集者というか、私)がいることを口実に、書いて終わりにするために、ただ言葉を吐いているんじゃないか(ご自身への効能は認めるけれど)。書いたあとのことは知らないし、疑問府をつけられたらノーアンサーでやり過ごし、フェイドアウトすればいいと思っているんじゃないか。

いっしょに言葉を届けよう、というような呼びかけなど、本当はまったく信じておらず、どこにも届かない片隅に自分の名前が乗っかることを不愉快と思う人もいたかもしれない。片隅の場にエネルギーをわけるのはもったいないとも思った人もいたかもしれない。目的も相手もなくただ書けばいい、誰かに届いたりしたらかえって怖い、そんなのは迷惑だと、思う人もいたかもしれない・・・・・・というふうに、どんどんと書く行為を信頼できなくなった、いまも少しその気持ちはある。

いやいや。そういうことよりも、なにか、言葉をうけとって、言葉にして、投げ返していく力が足元から抜けていくような気がしていた、夏以降。どうしてそうなったんだろう。たしかにすごく暑かった。

夏ごろ、と思い返してみて、あ、と思い当たった。

タイミング的に、立岩真也さんが亡くなった(7月31日)ことを知ってからのような気がする。私が立岩さんに最初にお会いしたのは大学生時代、なんとなく始まった縁で、大学近くに暮らす障害者さんの、生活や移動の介助を複数ひきうけていたころ。立岩さんは大学院生で障害者自立生活を取材する論文執筆中だったころだ。何十年も前だ。その後も、直接にお会いしたのは数回だし、平易な言葉のようで決して手っ取り早くは飲み込めない文章で紡がれる著作は、とても全部を読んではいない。ただ、不安がふくらむときどきに、参照する場所だった。

現在第3版で文庫にもなっているロングセラー『生の技法』(1990年初版)は、立岩さんや安積純子(遊歩)さんらが編み・刊行する時期と、私が大学を卒業して就職する時期が同じころで、執筆過程もすこし知っていたせいか、なんとなく目印のように思っていた本だ。

一方で、ちくま新書の『介助の仕事 街で暮らす/を支える』(2021年)は、自分が出版社の新書部署にいたころに、かなうなら編集者としてご一緒したかったような本で(実際、なにか手伝おう・つなげようとしてかなわなかった経緯もある)、いろいろを感じながら出てすぐ読んだ。

どっちも、こういう本をつくりたいよねと思う本だった。障害者総合支援法もなにもない頃、当事者主権とか当事者研究とかいう言葉のカケラもまだない頃、体当たりで自立生活を実現していた重度の障害者たちと、その周囲にかかわる経験があったからでもある。その経験で出会った人々の巻き起こしていたものには、歴史的にも、社会学的にも、権利獲得運動的にも、いろいろほぐしてゆかればならない様々な要素があり、それらのディティール全部に、あわてずさわがず、折れず、めげず--粘り強くという以前に「あたりまえに信じ」たんたんととりくむ筆致や作業があり、そのの蓄積が形になっていくことが、心強かった。

そんな立岩さんとのご縁をぐるっと遠回りを経てつなげられる気がして、岩下紘己さんの『ひらけ!モトム』を本にしようと思ったときに、原稿を読んでいただくことを思いつき、本当にひさしぶりに京都でお目にかかったのだった。その時の会話で、なにか一緒にできたら、ともお話しし、なにか考えようかな、というやりとりをしたものの、それが最後になってしまった。

『ひらけ!モトム』のモトムさんの広島行の旅にご一緒させていただいた記録をサイト記事にしていた5月、なにかもう一歩、踏み込まないと中途半端なのでは、それはなんだろう、と思っていたところでもあった。

そして訃報にショックを受けた。自分でも、自分の受け取ったショックは思いもよらかった。何を、いつのまに、私は立岩さんに見ていたんだろう。学生時代の友人や知人で、ものを書いたり研究したりするようになった友人はほかにも何人もいるけれど、こんなふうに感じることはない。なにかの、目印のようなものだったんだろうか、まだわからない。

人とつながり、時間と場所をともにし、話を聞き記録し、それをまた社会に送り返すこと、それを続けていくこと、それを続けていくことでしか見いだせない、発見や信頼や解決や創造の方法を見つけながら、見つけることでひとつ、ひとつと進んでいくこと、そうやっていくことで、出来てゆくなにかのお手本のように、立岩さんの仕事を思っていたのかもしれない。

この夏が終わるころ、PCやスマホやタブレットまでが、なんだか次々に不具合も起こした。買い替えたりデータを引っ越したりして、たまった画像の整理のためにめくっていたら、あれ?という画像が出てきた。私が撮ったんじゃない。

日付は7月25日。あ、あの子が撮ったんだ。

社会福祉士とか精神保健福祉士とかの資格とって、相手のいる「現場」で息をすることを、「編集」と並行してやりたかった私は、相談員とか支援員とかとか、、を非常勤やアルバイトやボランティアで続けている。

どの場所もどの場面も、日々日々の出来事のなかに、発見も信頼も解決も想像も、ちいさくちいさく埋め込まれている。だから書籍とか編集とか、そもそも言語化の手前で振り回され、振り回される自分を整理する時間も必要で、日々がどんどんと過ぎていく。

その「現場」のひとつ、子どもと過ごす時間が長い「現場」で、ある子が、行き先も言わずに勝手に出かけた後を探しに行ったのだった。熱中症の危険があって、学校の校庭開放やプールも休止になる日が続いていた。その日は時間制限で校庭も開けていたようだったが、心配で近くの小学校までの道をたどって探しに行った。校庭でプールのほうを眺めながらひとり悠々と楽しんで過ごしているその子を見つけた。なんとかかんとか、暑いよ、帰ろう、と声をかけて、一緒に引き返し始めた。

油断のならない元気もパワーもありあまる女子は、途中のちいさな公園にまたひっかかり、遊具によじ登る。熱くなっているコンクリートや金具をつかんで私ものぼり、おいかけっこしてみたが、観念して、いつのまにか持たされた彼女の水筒をぶらさげたまま、よじ登り遊具のふもとでうろうろ待機。

しばらくして遊具の上からやっと降りてきた彼女は、私にスマホを手渡した。私のズボンのサイドポケットからいつのまにか抜き取っていたらしい。さすがに暑さにあきて、もう帰ることにしたようだ。

帰りの並木道、どうせなら遊びながら帰ろうと、セミの抜け殻を集めながら帰った。抜け殻は両手にいっぱい、34個にもなった。戻った部屋にそれをばらまいて、ほかの職員から大目玉を食らった。

彼女がスマホを手に私を被写体にしていたことには、ずっと気づかなかった。

間抜けにうろうろしている自分をその子が俯瞰してくれた画像を見て、なんだか夏から止まっていた気持ちが動き始めるような気持になれるような、そんな感触がある。いま、夏を思い出しながら、なにかをとりもどしている。

だから、ジグ日記に記録しておく。

もうすこし、やってみる。

 

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