ジグ日記 | 出版舎ジグ

なんとも6か月ぶり

なんと6か月ぶりのサイト更新入力する。本当にごめんなさい、といっても、誰にも怒られていないのだけれど。

この間に、Facebookに個人的なつぶやき、ガス抜きのような投稿や、特定の人への文章(連絡メールなのだが、なかなかに長めで日記のような省察のような)も、ときどき書いては送っていた。どこまで読んでくれているのかは未確認だが、読んでくれるという位置どりを保ってくれている者に向けて。

そうすることで、かろうじて、どんどんと湧いては立ちこめる心や頭の靄を掻き分けていた。それも出版や編集の仕事ではなく。

そうしないと息もできないような時期だったのだが、そういうことをしながら、気がついたこともある。それは、自分がこのサイトで、なによりもひとり出版という枠で、やろうとしていたことの無自覚な強引さ。当然の帰結としての難しさ、である。

必ずしも書くことを生業にしていない書き手、専門知や情報源の補強がない書き手に、自身の来歴や経験や状況、その個人的で・限定的な視界からの発信を言葉にしてほしいと、そういうニュアンスの依頼をずっとしていた、のだった。

個人的で限定的な視界・風景は、特定の、あるいは不特定の、他者に向けて言葉にして送り出すことで、はじめて視界や風景として開く。(そういうこともある、という程度にゆるく言っておくべきだろうか?)

その言葉と、それが引っ張り出してくる視界、それが自分のなかから沸き出してくる感触、沸き出して他者に向かい、自分の一部が相手に委ねられていく、その感覚が呼び起こす恐怖と安堵は、書き手にとって切実なものだと思う。

その恐怖と安堵が、その次に始まる別の何かの力も引き出してくる。その恐怖と安堵の歩みの一歩一歩が、つまり書くことだ。読む側の位置にいてそれを引き出していく者(編集者とか)の作業、でもある。こんな作業を、それを生業にしない人にお願いすることは、場合によってはかなり暴力的なのではなかったか。すくなくとも、こちらの構えに安定感や安心感をたっぷりと感じさせていないときは、とても暴力的な要求なのではないか。

医学書院を退職されてフリーランスになった白石正明さんのロングインタビューが朝日新聞に掲載され(2024年5月10日朝刊「オピニオン&フォーラム」欄、 藤生京子記者。有料記事のリンクのみで失礼)「編集ってケアに近い」という白石さんの台詞が掲載されている。私自身がずっと思ってきた思いであり、信念でもある。その作業=仕事=関係性の内実は「我知らず自分の中から立ち上がってくる」もの。とてもよく分かる表現。

そして、そんな「我知らず立ち上がってくる自分の中」を、投げかけられ、ぶつけられることに耐えられない書き手は実際、多くいる。プロの書き手であったりしても、である。それは、耐えられない人にとっては、理不尽極まりない要求なのではと、「書く」という約束にその「理不尽」が含まれているなんて思ってもみなかった、という怒りに包まれてしまうこともあるのだと、ある時期から本当にしょっちゅう思い知らされている。こちらが、なんの権威もない「ひとり」出版の人になって以降は、それはいっそう「理不尽なこと」に見えるらしいと、これも実感する(名のある出版社の会社員だったころは、むしろ逆だと思っていたのだが。つまり「権威あるっぽい」側にいたのでは一対一に向き合えないのでは?と。)

結果、「書いて欲しい」「語って欲しい」と呼びかけることで、(当方にとっては思いがけず、なのだが)憎まれたり、恨まれたり、逆に突然に圧倒的に見下される=無視される、こともある。

――実はこの構図も、ケアの現場にとても近い。白石さんのインタビューを読んでいてそう思い当たった。

そういうことを心して思い直し、もういちど心してこの場所に綴っておく。なんどでも仕切り直ししないとならない。そして、そうだね、まだもうすこし、やってみます。そうするしかないじゃない笑。

 

 

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