ジグ日記 | 出版舎ジグ

編集ってケアに近い。のか? その2

(つづき)

編集ってケアに近いのか。
考えようとしていたことは、こっちではなかったな、と気付く。

編集者仕事がケアみたいなものだ、とは、「まあね」という話だろう。
書くことで自身(の頭の中)を無防備にさらすなら、守られている安全(の感覚)が必要で、そんな作業に取り組んでいるゆえにsensitiveでvulnerableな状態にある人なら、その作業を要請している側が、そのことをケアする必要がある、だろう。

そっちではなく逆だ、

ケアは(労働か賃労働かはさておく)、その、編集と似た作業なのか。

こう言い換えてみる。

ケアする相手は「書く人」で、ケアする自分は「編集者」。そういう感覚で立ち位置をイメージしているように思う、私は。

編集ってケアに近い、ではなく、ケアって編集だ、と考えようとしていたのだった。

他人にさらす必要がない困難やトラブル、トラウマや傷、能力不足や、いまのところ非実現的な願いを、どのような経緯だかを経て、特定の他人にさらし、限定的にとはいえ、委ねたり、預けたりし、「なんとか意味や〝その先〟がある企て=作品=人生にしていこう」という、作業の伴走。

「ケアって編集にちかい」

そのケアが「ソーシャルワーク」かどうかは、また別の話かもしれない(ソーシャルの定義によるだろう)。

頭の中や胸の内が、レジ袋だらけだったり、段ボール箱だらけになったり、「足をのばして眠れ」なかったり、ゴミ収集車の到来を心待ちにしたり、その時を怖れたりしながら、今にも「やっぱ、やめます」と言ってしまいそうな自分に向き合うときも、似たようなものだ。

なんだか当たり前のオチにがっかりするが、納得はする。

レジ袋と、レジ袋ごと詰めた段ボール箱の山、のつづきの話は、またの機会に。

 

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