『ひらけ!モトム』によせて
B&Bオンライン・トークのために その2
(その1のつづき)
鈴木範夫さんは、群馬県桐生市から世田谷区に移り、自立生活を実践中の障害当事者。
岩下紘己さんが上田要さんから聞き取りまとめた『ひらけ!モトム』でも紹介されている、HANDS世田谷の事務局長でもある。HANDS世田谷は、世田谷区の地域で介助をいれながら自立生活を実現していこうとする障害当事者がたちあげたNPO法人だ。上田さんも30年ちかく関わっている。
そのHANDS世田谷について、『ひらけ!モトム』で補足的に説明した記述に間違いがあり、それを指摘してくれたのが鈴木範夫さんだった。
鈴木さんには、『ひらけ!モトム』のトークイベントに、ぜひご参加いただこうとお声がけしていた。上田さんは、鈴木さんのことを、こう紹介する。「これからの世田谷を担う、公的介助保障を要求する世田谷連絡会(介助連)のホープ」。
本『ひらけ!モトム』は、すでに鈴木さんに謹呈されていたのだが、紙の冊子ではページをめくるのも、姿勢を維持するのも困難なので、PDFデータをあらためてお送りし読んで頂くことになった。
(こういうことに気付けない版元はダメであり『ひらけ!モトム』のデジタル化に動かねばならない)
鈴木さんからは、イベントへの参加は、当日のご都合もあって難しいとのこと。その返信メールで、「主題からは些細な事だと思いますが」と、記述の誤りをご指摘をいただいたのだった。
記述の誤りのお詫びがてら、HANDS世田谷やケアズ世田谷、介助連について、もうすこしお聞きできたらと思った。鈴木さんがイベントにご参加できないのも、とても残念だ。ということで、上田さんが取り次いでくださり、HANDS世田谷の事務所に鈴木さんをお訪ねした。
HANDS世田谷の事務所は、世田谷線の山下駅、小田急線の豪徳寺駅に近い、静かな住宅街の一室。
お訊ねした平日午前中は、車椅子の人やそうでない人が、机のパソコンにむかって作業したり、スマホで連絡をとったりしていた。コロナ対策でドアを開けたままで暖房している部屋に電動車椅子でご案内いただき、お昼前の小一時間ほど、お話しをうかがった。
鈴木範夫さんは、上田要さんとちょっと似て大きな笑顔とユーモラスな語り口だった。(鈴木さんの発音にこちらの耳が慣れず、聞き漏らしだらけだったが)、数色のカラーのエクステンションを頭の頂点から数本たらしていて、目が釘付けになる。
あらかじめ用意して下さった資料とともに、障害者の地域生活支援や重度訪問介護などの経緯の、こちらのつたない(まことにつたない)いくつかの質問に答えて下さった。(「社会福祉士さんなんですよね」と言われて小さくなるしかなかったことを白状します。)インタビュー的な記事は嫌だからとのことだったので、うかがったことほんの少し、まとめてみる。
*
鈴木さんは群馬県のご実家を出て自立生活をしようとしたとき、最初から世田谷をめざした訳ではなかったそうだ。
きっかけは、世田谷の光明養護学校の出身で、さまざまな障害者運動の中心にいた横山晃久さんが、群馬県社会福祉協議会の招きで行なった伊香保温泉での講演会だったそうだ。その後、ふたたび自ら活動していた障害者団体で招き、 懇意となった横山さんに、実家を出たいと希望を話すうちに、神奈川で暮らす計画がたちあがったらしい。 最終的には、世田谷の梅丘に暮らすことになった。
ちょうど横山さんたちがHANDS世田谷をたちあげていた時期だ。(『ひらけ!モトム』では初代代表の山口成子さんのことなどが紹介されている。)
鈴木さん、そして上田さんが地方から移り住んだ世田谷区には、横山さんのような光明養護学校卒業生を中心とする障害者運動の蓄積があった。管理された施設ではなく、家族から自立し、介助者をつかって地域で暮らす障害者の自立生活をめざす運動として、小田急線梅ヶ丘駅改善運動に端を発し、「自立の家」を作る会」や「あたりまえの生活を考える会」、そして今回鈴木さんにお話を伺った介助連(※後述)の前身、「身体障害者介護人派遣制度の改善を求める会」(求める会)が活動していた。
運動の方針をめぐって、この「求める会」はいったん解散したのち、公的介助保障をめぐる世田谷区との交渉を継続するため、上田要さんや鈴木範夫さんらの個人にも呼びかけた。上田さんも、鈴木さんも、当初はHANDS世田谷のメンバーではなく個人として、これに参加していく。それが1997年に世田谷の複数の障害者グループと個人で立ち上げた、「公的介助保障を要求する世田谷連絡会」(介助連)」である。
その結成時のチラシをいただいた。世田谷の歴史的文書であるので、その一部を掲載したい。
『公的介助保障を要求する世田谷連絡会』(介助連)結成!
昨年[注:1997年]11月2日、『HANDS世田谷』、『「自立の家」をつくる会』、『こぶたの学校第四日曜日の会』、『佐野雄介君と共に地域で生きる道をきりひらく会』、『横山晃久介助会議』、上田要、鈴木範夫、以上五団体と二名によって、世田谷区に公的介助保障を要求する連絡会の結成を呼びかけました。結成に向けての呼びかけの集まりでは活発な意見が交わされました。
その場において、当事者主体の運動として広く参加を呼びかけ粘り強く要求を実現していこうと『連絡会』結成が確認されました。
以下これまでの運動の経緯と、当日確認された『公的介助保障を要求する世田谷連絡会』(通称“介助連”)の「会則」(案)です。
<これまでの経緯>
‘90年、重度脳マ[注:重度脳性麻痺]6回上乗せの一方的切り捨て[*1]反対に端を発した交渉は、それを撤回させ次年度以降も世田谷区に公的介助保障を実現させるための継続交渉へと発展し着実に前進してきた。しかし私たちの運動体は当初組織(会)設立の動きはあったものの「現状では難しい」ということでそのようにはならず世田谷区に対して「公的介助保障要求」という目的のもとその時々の課題で共闘していこうというところに落ち着き現在にいたっている。(中略)
私たちはこれまでもそれぞれの立場を尊重し合いながら臨機応変に対処してここまでやってきました。形の上での組織にしばられず「世田谷区に公的介助保障を実現させる」という一点で一致し活動してきました、だかからこそここまで進めてこれたのだとも言えます。今回提案する「会則」などにしてもこのような立場から活動をより発展させていくための「確認事項」といったものとしてとらえてください。会の性格も「連絡会」というゆるやかなものとしました。
[案]
〈会の名前、会の性格〉
『公的介助保障を要求する世田谷連絡会』(略称“介助連”)とする。
それぞれの団体、個人の独自性を考慮したゆるやかな『連絡会』とする。
〈会の目的〉
あくまでも世田谷区での交渉を通した公的介助保障実現を目的とする。「自立生活」に関わるその他の問題についても余力があれば取り組んでいく。国レベル、都レベルの問題についてはそれぞれの取組を尊重し、『連絡会』の中では意見交換情報交換に努めていく。
〈会の基本方針〉
行政は「障害者」が必要とする全ての介助保障する責任を持つ。
この基本的な考えのもと、「障害者」が世田谷の地で当たり前の生活を自由に享受するために必要な介助を世田谷区に要求していく。
※「障害者」当事者が主体となる運動であること。
※生活上必要な介助を全時間保障させていく。
※公的責任ある人派遣体制と介助料支給、この2つは公的介助保障の柱であるという考えのもと運動を進めていく。
※私たちの目ざすのは「すべての」「障害者」の介助保障であり「障害」の種別などによって差別してはならない。
※介助の仕組み、あり方についてはそれをうける「障害者」当事者の立場にたったものを実現させていく。あわせて介助労働者の労働条件、生活保障の工場をめざす。
〈会の構成メンバー〉
会員は、基本方針に基づき参加していこうとする全ての世田谷の「障害者」「介助者」そして関係者とする。とくに「会員」の登録はしない。「会費」も徴収しない。
〈事務局〉
活動を進めていくため会に事務局を置く。事務局メンバーはこれまで7年間の実績と基本方針を踏まえて責任を持って継続的に活動を担っていく自覚のある個人、団体。全ての会員に事務局は開かれており。それを踏まえたうえでいつでも会議に参加できる。
(以下略)
事務局はHANDS世田谷内、世田谷区および対外窓口担当は、上田さんと鈴木さんとなっている。
介助連は現在も世田谷区の障害者の連絡会として動いている。現在は交渉が多いそうだ。世田谷の団体と個人のゆるやかな連絡会議としてはじまり、現在もそれは変わらない。一方、HANDS世田谷は、当事者団体であるNPO法人となり、ケアズ世田谷は介助者を登録し障害当事者につなぎ、地域生活の支援をするNPO法人だ。
障害者福祉が、「行政の責任で福祉を行なう」措置制度から、当事者が事業者と「対等な立場で契約してサービスを利用する」支援費制度に転換するのが、2005年の障害者自立支援法以降だけれど、介助連の立ち上げはそれよりだいぶ前の1998年。
そして、上田さんが(まだご両親と暮らしながら)介助者をいれて自分の生活をたちあげはじめるのが1986年ごろ。鈴木さんが東京で自立生活をめざしはじめるのが1990年ごろ。
高齢者介護を、そしてのちに障害者介助も同様に、家庭でなく社会で担う、言いかえれば民間事業者にゆだねる構造転換のはじまりが介護保険法で、その成立が1997年。市民主体の非営利活動団体が法人格をとれるようになったNPO法は1998年。介助連のスタート時期には、そのどちらもまだない。
上田さんや鈴木さんが、世田谷で介助連に加わった時代には、介助やボランティアという言葉は現在とは違う響きと重さもあったと思う。障害者の生存権や社会権に必須の社会的サービスとしての介助。上田さんや鈴木さんたちが求めているのが、その公的介助保障だ。
家族以外の人から受ける介助は、ながらく生活保護の受給と一体の措置制度(行政が必要性を判断し決定する)の枠組みのなかにあって、生活保護への障害者加算、他人介護加算という制度だった。また東京都における「全身性障害者介護人派遣事業」等の自治体独自制度もとても大きな役割を果たしていた。
制度と要求のせめぎ合いのなかで、社会運動的な責任や熱意を傾けて積み重ねられていたものが、「社会化」「市場化」「制度化」という局面にっていくのが、支援費制度への転換だった。
制度としてまとめられていくプロセスは、まるで「移築」「とりこわし」「建て増し」「補修」「改築」で変容していく複雑な建物のようだ。障害社福祉の制度は複雑でわかりにくい。
その経緯の説明も、当事者と行政担当者は真逆の視点からとらえたりしているので、分かりにくい。障害のある人とかかわろうと入っていく若い世代の介助者には、古い制度と現在の繋がりは見えにくい。
(その3につづく)
*1「6回上乗せの一方的切り捨て」鈴木さんの補足説明をいただきました:
当時、東京都の制度てあった「全身性障害者介護人派遣事業」の前身の「重度脳性麻痺者等介護人派遣事業」が1974年に開始されました。この制度は時間での換算ではなく、月何回何円かというもので、制度開始時は月4回というものでした。その後、都レベルで毎年交渉を続けて少しづつ回数と金額を上げていきました。その間世田谷区は独自に月6回乗せをしていましたが、1990年に突如打ち切るという方針を出したことから交渉が始まったと聞いています。
制度の成り立ちや内容はこちらのアーカイブサイトをご参照ください。
*2 上記アーカイブ運営者でもある立岩真也氏(立命館大学先端総合学術研究科教授)が、障害者介助についての新書を近刊予定。詳細はこちら。
「ひらけ!モトム」刊行記念 オンライン・トークイベント「つなげ!自立と介助と地域」2020年11月25日 本屋B&B(東京・下北沢)【終了しました】