『ひらけ!モトム』によせて
だから、ぼくは問い続けたいと思った
二月、島根県に転居した。浜田市旭町にある島根あさひ社会復帰促進センター*1 に、春から勤務することになったからだ。
脳性麻痺者であり重度身体障害者である上田要さんの自立生活介助をしていたぼくが、なぜ大学院で臨床心理学を学び、なぜ島根あさひ社会復帰促進センターで民間の支援員として働くことを志したのか。尋ねられるたびにぼくは口ごもってしまう。容易には繋がらないそれぞれの点を、どう結べばいいのか、戸惑ってしまっているぼく自身がいた。
ぜひ書いてみてください、と言ってくれたのは十時さんである。このときふっと頭に浮かんできたのが、上田さんの言葉だった。
「いてはならない存在の障害者を19人を消し去った彼自身が、この世から抹殺されていく。あまりにも悲しすぎる。何のために生まれてきたのか。何のために今まで生きてきたのか。これからも僕自身に問いかけて生きていきたい」
津久井やまゆり園事件をめぐる裁判で、植松被告が死刑判決を受けたその日、上田さんはFacebookにこう書き込んだのだった。*2
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今からもう半世紀ほど前、上田さんは25歳のときに療育施設に入所した。管理・隔離を主とするその施設で、ただ決められた時間に寝て起きて食べるだけの時間を過ごすなかで、自分自身が社会から「いらない存在」とされる「障害者」であることを、上田さんは痛烈に自覚した。
「おまえのおかげで青春を味わえたよ」
施設で出会った同じく脳性麻痺者である小林さんから遺されたこの言葉が、ノンステップバス運動をはじめとするその後の地域での様々な活動の原動力になった———なぜ障害者はそんなことをわざわざ言わなければいけないのか。青春を味わうという、そんな当たり前のことがなぜ障害者には許されないのか。
生きることの意味に悩んでいた当時のぼくにとって、それは強烈なメッセージだった。「なぜ生きるのか」ではなく「なぜ生きられないのか」、そして「どうしたら生きていけるのか」と、問う必要があることを知った。
上田さんがぼくに諭したのではない。
障害者にとって当たり前ではなかった当たり前の暮らしを実践し、地域中を軽やかに飛び回る日々の生活のなかで、介助者として車椅子を押すぼくに、上田さんはその背中で示し続けてくれていたのだった。
障害者のことなど全く知らなかったぼくは、こうしていつの間にか障害と福祉の世界に足を踏み入れていた。上田さんの生活史をまとめ、本として出版した*3 ころには、知らず知らずのうちに上田さんの語りはぼくの血肉に染み込み、自分自身の一部と化していた。
もう無視することはできなかった。目を背けることは、自分自身に嘘をつくことだった。
だからぼくは問い続けたいと思った——なぜ生きられないのか/生きさせないのか。どうしたら、ともに、生きていけるのか。
*1 島根あさひ社会復帰促進センター公式サイト 参照。PFI法に基づき国が民間に委託した官民共同運営刑務所。医療・福祉・介護を提供する民間会社( (株)SSJ)は、社会復帰のための各種支援を行う。
*2 岩下紘己「さよならは言わない−相模原施設殺傷事件の死刑判決とある障碍当事者の声」も参照。
*3 岩下紘己『ひらけ!モトム』出版舎ジグ、2020年