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香港 あなたはどこへ向かうのか 1 阿古智子

テレビから次々と流れてくる映像は、信じ難いものだった。

放水車が道路一面に、化学物質入りの色のついた水を撒き、人々は四方八方に逃げ惑う。重装備の警察は、小さな子どもにまで狙いを定めているではないか。救護に入っているボランティアやメディアに対しても、見境なく、至近距離から催涙ガスの銃が向けられ、突然目を打たれた人は倒れこんだ。黒づくめの服装で警察に応戦しているのは、中学生か高校生か。若者たちは、どこからかかき集めてきた竹の棒や鉄の仕切りでバリケードを築き、その内側から、道路を砕いて作った石の塊を警察に向かって投げている。いくつもの火炎瓶が飛ばされ、ところどころに炎が上がっている。

香港は戦場と化したのか。なぜ、こんなことになってしまったのか。これが私の住んでいた香港なのか。香港は私にとって、苦くて甘い青春の思い出が詰まった場所なのに。
私が香港に住み始めたのは、香港がまだイギリスの統治下にあった1996年7月。中国に主権が戻る1年前のことだった。


第一次アヘン戦争でイギリスの圧倒的な軍事力に屈した中国(当時の清国)は1842年、南京条約を結び、香港島をイギリスに永久に割譲することに合意、1860年には第二次アヘン戦争(アロー号戦争)の講和条約、すなわち北京条約によって、九龍半島の南端が割譲された。1898年には、香港島への水の供給などの対策で、イギリスは中国から新界を租借、99年後(1997年)に返還すると約束した。

1982年9月、イギリス首相のマーガレット・サッチャーが中国を訪問した。同年6月にフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利して自信をつけていたサッチャー首相に対し、鄧小平は、「香港はフォークランドではないし、中国はアルゼンチンではない」と激しく応酬し、イギリスが香港返還に応じないなら武力行使や水の供給停止も辞さないことを示唆した。新界のみの返還を検討していたイギリスは、その後の中英交渉において、香港島と九龍半島の返還をも求める鄧小平に押され、折れる形となった。1984年12月19日、中英共同宣言が発表され、1997年7月1日に香港の主権を中国(中華人民共和国)に返還し、香港は中国の特別行政区となることが明らかにされた。

この宣言には、「高度の自治」が明記され、中国政府は2047年までの50年間、香港に対して「一国二制度」を実施することとなった。つまり、香港は中国の一部となったが、外交・軍事を除く分野においては、中国とは異なる制度が適用される。香港は資本主義を採用し、特別行政区として独自の行政、立法、司法権を有し、通貨やパスポートの発行権も維持できる。この制度の下で、香港には、言論・報道・出版の自由、集会やデモの自由なども保障されるはずだった。

しかし、香港の憲法にあたる「特別行政区基本法」(香港基本法)は、1985年の全国人民代表大会(全人代)が起草委員会を設立し、1989年の天安門事件を経た1990年5月、やはり全人代によって制定された。解釈や改正の権利、政府高官の任命権も全人代が握っている。


1997年6月30日の夜、そういえば、雨が降っていた。午前0時、イギリスによる香港の委任統治が終わると、香港の警官たちは帽子の王立香港警察のバッジを蘭の花のついた新しいものに付け替え、英国旗「ユニオン・ジャック」を下ろした。7月1日、中国の国歌に合わせて中国の国旗が掲揚された。チャールズ皇太子、江沢民国家主席、トニー・ブレア首相、李鵬国務院総理の出席の下、行われた盛大なセレモニーが終了し、香港特別行政区政府が成立した。駐香港イギリス軍は撤退し、代わりに中国本土から人民解放軍駐香港部隊が駐屯することになった。

香港大学教育学部の大学院生だった私は、7月1日、NHKの香港支局で臨時のアルバイトをしていた。重要な歴史のページに立ち会えたような気がしたのか、高層のオフィスビルが立ち並ぶ中環(セントラル)の公衆電話ボックスから大阪の父に、「お父さん、香港が中国に返還されたね。今式典が終わったよ!」と電話したことを覚えている。23年前は、まだ街の至る場所に公衆電話があった時代。私は携帯電話を持っていたが、手のひらより大きなノキア製のものだった。一番安い契約だったので、もっぱら受信専用。国際電話など、めったにかけたことがなく、父とは手紙やハガキでやり取りしていた。一言でも現場の生の声を伝えたいと、よほどの思いでコインを握りしめ、公衆電話を使ったのだろう。

中国は社会主義国だ。おまけに一党が支配する、政治的自由の極めて限られた国である。不安を抱えた人たちは返還を前に、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアなどへ移民した。しかし、香港居住者のほとんどが、元々は中国から渡ってきたのであり、祖国との新たな関係に思いを膨らませている人も少なくなかった。経済が好調だった中国との関わりはチャンスに満ちていると捉えていた人もいるだろう。日本の企業関係者も数多く駐在したり出張で訪れたりしており、私が香港にいた時代は、実に多くのビジネスや学術関係の会合が開かれていた。


私は留学先を中国とアメリカで迷ったのだが、フィールドワークが思う存分できる中国に決め、ロータリークラブの奨学金を申請し、運良く選考を通過。しかし、ロータリークラブの中国支部は上海に立ち上がったばかりで、中国語圏の留学先は、シンガポール、台湾、香港から選ばなければならず、「台湾に度々渡航していると中国政府から目をつけられる」と耳にはさんだ私は、シンガポールはフィールドから遠いと悩んだ挙句に、香港留学を決めたのだった。

留学の準備のため、初めて香港を訪問したのは、1995年だっただろうか。
私は大学院で中国の社会変動を研究しており、言葉は北京語しかできない。広東語を話す香港の人たちと交流するのは正直、心細かった。1994年から、中国の湖南省で教育援助を行う団体に参加し、フィールドワークをしていたのだが、その関係で知り合った友人に、「苗圃行動」という香港の団体で活動している香港人の張さんを紹介してもらい、初めの香港旅行では張さんの家に泊めてもらった。「苗圃行動」も中国大陸の貧困地区で教育援助を行っている団体で、香港から中国まで、長距離を歩いて募金活動を行うことで知られていた。中国と関わりのある香港人なら、北京語も話せるし、共通のテーマもある。ワクワクしながら鉄道で広東省を経由し、香港に入った。

しかし、私としたことが、張さんの家に着いた日の夜に熱を出し、そのまま寝込んでしまった。翌日目を覚ました時には昼を過ぎていた。張さんはすでに仕事に出ており、家にいた彼女の娘がちょうどインスタント麺を作って食べようとしているところで、「一緒に食べる?」と私にも作ってくれた。シングルマザーの彼女と娘の2人が暮らす公共団地は、狭い香港の家の中でもさらに狭いというのに、彼女たちは、私のためにベッドをあけてくれたのだ。中国の山奥から香港にやって来たその日本人は、初対面のその夜から高熱でうなされている。今振り返っても、よく受け入れてくれたと思う。

元気になってから、張さんは香港人の友達たちとの会食に連れて行ってくれた。古いビルの奥まった一室を改造した、見た感じは汚らしいレストランなのだが、新鮮な海鮮の刺身やニンニクソースで炒めた大きなホタテ貝など、次から次へと大皿の美味しい料理が出てくる。大きな海老の料理は皿に残ったスープを最後に麺に絡めて食べる。コンデンスミルクにつけて食べる揚げた饅頭(マントウ)には、「こんなに美味しいものがこの世にあるのか」と頬っぺたが落ちそうになった。


そういえば、私は教育援助とフィールドワークで中国の湖南省や寧夏回族自治区を度々訪れていたが、しょっちゅう、お腹を下したり、熱を出したりしていたことを、あらためて思い出した。50歳近くなった今は、中国でのフィールドワーク中に少しでも体調を壊すと、とても不安ですぐに医者に診てもらい、さまざまな薬を試す。けれど若い頃は自由な時間も今よりあったし、すぐに病院に行くこともなく、しっかり眠り、おいしい食べ物と手持ちの少量の薬、人のやさしさで体調を取り戻し、つらいこともすぐに忘れて、次に向かっていたような気がする。(2につづく

アイコンはエッグタルト。パイ生地などペイストリーの上にエッグ・カスタードを載せて焼いた、 香港ではおなじみのお菓子。後日このお菓子にも触れます。

  •  写真1:中環(香港島北岸、九龍半島の向かい側に位置する金融・ビジネスの中心地)のホテルの窓から見た風景。教会の後方に高級マンションが立ち並んでいる。
  •  写真2:蛇専門店は冬になると開店する。蛇は冬眠の前に太るので味が良くなるからだ。蛇の肉が入ったお粥やスープが美味しい。

いずれも著者撮影(2019年12月)

あこ ともこ 現代中国研究、社会学、比較教育学

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