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香港 あなたはどこへ向かうのか 3 阿古智子

スターリー・シスターズ - 星の姉妹たち-その1

1996年5月、香港に留学することが決まり、私はどこが担当部署かもよくわからないというのに、適当に連絡先を調べ、香港大学の事務室に手紙を書いた――「私は奨学金をもらっても生活が厳しいので、一番安い学生寮に何としても入りたいのです」。大学間の協定で派遣されるわけではないし、そんな手紙一通でまさか学生寮に入れるとは思っていなかったのだが、ほどなくして、日本にいる私の元には「あなたは李國賢楼(Simon K.Y. Lee Hall)に入寮できます」と書かれた手紙が届いた。李國賢楼は香港大学のキャンパス内にあり、私が授業を受ける教室のあるビルに行くのに5分もかからないという、利便性を考えれば最高の条件の学生寮だった。

しかしのちに、私は香港大学の学生寮の種類をよく理解せずに、「一番安い寮」を求めてしまったことを知る。学生寮には学部生向けのものと大学院生向けのものがあるが、ほとんどが学部生向けのものだ。私が「一番安い寮」を要求したのだから、大学の事務局が学部生向けの寮を紹介するのは当然と言えば当然なのだが、李國賢楼には学部に入学したばかりの学生たちが住んでいる。私は日本で修士課程を修了してから香港に渡ったので、寮友たちとの年齢差は4~6歳にもなる。その上、2人1部屋だから、若い学部生と背中合わせで勉強し、夜は隣り合わせのベッドで眠るのだ。


私のルームメートは、日本語を専攻する学生だった。まだ拙い日本語しか話せなかった彼女は、私に話しかける時は緊張していたようだったし、私も何を話題に彼女と話せばよいのか戸惑うことが多かった。フィールドワークで慣れている私は中国の貧困地域の農家でも生活できるぐらいだから、雑音などもそう気にはならないのだが、彼女は私に相当気を使っていただろうと思う。彼女は「豚肉を市場で売って家族を養っている父に感謝してはいるけれど、父は女である私の意志をあまり尊重してくれないの。娘を息子と同等に扱っていないから」と話していたことを今でも覚えている。苦労して肉体労働を続け、子どもを香港大学にまでやった親世代は働くことに必死で、「ジェンダー」なんて概念は持ってはいなかったのだろう。彼女は自分の設定した目標を成し遂げようと、必死で勉強していた。

香港大学の授業は英語で行われていたが、寮の中では皆、広東語で話している。私がいると英語に切り替えてはくれるのだが、楽しそうな広東語の会話の中には入っていけない。その上、寮では定期的にさまざまな活動あるのだが、ほとんどが広東語で行なわれる。寮の各フロアに「チーム」があり、「チームの歌」がある。私が住んでいた2階の寮生たちは「スターリー・シスターズ」(星の姉妹たち)として、活動がある時にはこのテーマソングを歌うのだが、広東語の歌詞がうまく発音できないし、大学院生の私には、この振り付けのある歌はかわいらしすぎた――ということで、数回参加しただけで遠慮した。

このほかにもさまざまなフロアごとの活動があったが、私は特に、毎週各人が順番で担当するスープ作りが好きだった(食べる側として!)。さすが、広東料理の本場で育っただけあって、寮友たちが圧力鍋で作るスープはシンプルだが美味しかった。広東料理のスープは、肉(大抵、骨つき)、魚介(乾物)、旬の野菜、乾物を組み合わせて作る。鶏の皮は剥ぎ、肉は下ゆでし、アクや汚れを取り去ってから煮込む。骨つき肉のほか、干し貝柱などの乾物からもよい出汁が出てくる。軸つきのトウモロコシやレンコンなどの野菜からも旨味が出てくるし、棗(ナツメ)、枸杞の実、キクラゲなどの乾物を入れれば、さらに滋養を強化できる。調理方法はごく簡単だ。ぶつ切りにした材料と水を鍋に入れ、最初にアクや脂を何度か取り除くだけで、あとは数時間じっくり煮込み、最後に塩で味をつけるだけで、実に味わい深いスープが出来上がる。

毎日家族のために食事を作るようになり、中華料理のレパートリーも増えた今では、私も広東風スープを時々作るが、当時はスープ当番だと言われても、何を作ってよいか全くわからなかった。香港で暮らし始めたばかりだったので、市場で生の魚や肉を捌いてもらうこともできず、スーパーで入手できるもので、何か日本の物を作ろうと考えた。そして、私が作ったのは味噌汁やカレースープ! 広東料理のスープの味の深さと比べたら、「このスープは味がしない」と思われたのではないかと、今思い出しても、顔から火が出そうなぐらい恥ずかしい。

イギリスのスタイルを取り入れている香港の寮生活で、時折行われる「ハイテーブル・ディナー」も、私にとっては珍しかった。香港大学のキャンパス内でも、ひときわ目立つ、歴史ある美しい煉瓦造りのメイン・ビルディングのホールで、学生と先生が一堂に会して食事をする。一般に、先生の着くテーブルが学生たちの着座するテーブルより一段高いところにあるので、「ハイテーブル」と呼ぶようだ。先生たちは黒いスカラーズ・ガウンを、学生は黒いスーツなどを着用する。より特別な時は、学生もガウンを着用する。私も黒のツーピースで参加し、ディナーを楽しんだ。


私の留学生活はこんな風に始まったのだが、今回香港を訪れ、李國賢楼の2階で共に過ごした「姉妹たち」と、実に久しぶりに再会することになった。

デモについてどのように考えているかを聞いてみたかったが、彼女たちには最初からそういった話はしないでおこうと考えた。私が本を書こうとしていることも伝えず、メモを取ることも、録音をすることもしなかった。寮を出てから20年以上、会っていない人がほとんどで、現在の彼女たちがどのような立場で何をやっているのかわからなかったからだ。仕事や家族の状況によっては、デモを支持する側と政府を支持する側で対立しているかもしれない。

香港の人たちは大抵、英語名を持っている。私の友人たちも例に漏れず、皆、英語名で呼び合っていた。ジョセフィンとは2年前、日本に旅行に来た時に会っている。海外にも出張で飛び回るバリバリのキャリアウーマンだが、子どもはおらず、夫と2人で年に何回も海外旅行に出かけ、優雅な生活を送っている。彼女は寮に住んでいた頃から、いつも笑顔で私に話しかけてくれた。今もその愛くるしい笑顔は変わらない。ジョセフィンがテレサとアニーに声をかけてくれたが、テレサは教会の活動にどうしても行かなければならず、ランチには参加できなかった。アニーとは寮を離れて以来会っていない。


ジョセフィンが予約してくれたレストランは、地下鉄九龍駅に直結している新しいショッピングモール内のおしゃれな上海料理店。人気店なのか、12時に入った時には店内はすでに満員で、店員がキビキビと動き回っていた。私が先に着き、少し遅れてジョセフィンが、そしてアニーがやってきた。実は、私はアニーの記憶がなかなか戻らなかったのだが、顔を見るとすぐに思い出した。実直で気さくな様子は、あまり変わっていない。今は2人の子どものお母さんで、ソーシャルワーカーとして働いている。

ジョセフィンは手早く、6品ほど入った冷菜のプレートと小籠包などの点心数品を注文用紙に書き込み、飲み物はこの店オリジナルの健康に配慮したものがあると勧めてくれた。アニーはお茶を、私とジョセフィンは黒ゴマが入ったジュースを頼んだ。心理学を学んだアニーは、問題を抱える夫婦へのカウンセリングを行っているとのことで、私に英語でその様子を説明しつつ、ジョセフィンとは広東語で会話している。そのうち、2人の共通の友人や知人の夫婦に関する問題などに話が及んだようで、広東語での会話がしばらく続いた。

その後、「Tomokoとは本当に久しぶりだけれど、最近の香港をどう見ているの」とアニーが言うので、私は「テレビやソーシャルメディアから流れてくる映像を見て、とても心を痛めているわ」と答えた。せっかく話題が変わったのだから、ここから私の聞きたいことを自分から質問してもよかったのだが、あえて私は聞き役に回ろうと、彼女たちの話の流れに乗るようにした。アニーは続けて、「私は毎週のようにデモに参加しているのよ」と話し始めた。

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