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〈自由〉の〈門〉をめぐる話 阿古智子 その3

足元の「自由」

今日の中国、香港、そして、かつての日本 

前回コラムから2ヶ月。この間の区議会議員選挙(4月21日)の結果は、自民党(12→9、現職議員が3名落選)、立憲民主党(8名全員当選)、公明党(改選前は9名。今回立候補した8名全員当選)、共産党(7名立候補し6名当選)、都民ファースト(2名当選)、諸派無所属(6名当選)となった。「旧中野刑務所正門」の保存に強く反対していた自民党は、古株の議員が3名も落選した。区議会定例会は6月25日から始まっている。
では門は、その後どうなっているのか。

当初のスケジュールでは、門を敷地に含む平和の森小学校新校舎の基本構想は確定しているはずだが、区の担当者に面会して確認したところ、基本構想はまだ「案」のままだという(6月18日)。しかし、基本構想が成案になれば、細かい設計図の作成が始まり変更はきかなくなる。区が提示する、4階建の校舎の影に門を配置する設計が確定してしまう。なんとか「平和の門を考える会」の提案を検討してもらえないものか。門を学校から切り離し、生徒の目に届かないようにするのではなく、学校の風景に溶け込む、イベントなどに活用できる配置にできないものなのか。

子ども教育施設課の説明によると、中野区の学校建設は区民とのワークショップの形式はとらず、区の基本構想を大きく変える想定はしていないという。ならば、なぜ意見交換会やタウンミーティングを開催してきたのか。文化財の価値があるとされる旧中野刑務所の正門が、小学校建設予定地に残っているのである。区議会はどう議論していくのだろうか。

講師を招いての講演会や見学会、交流会など、「考える会」の活動を通して、この間私自身大きな学びがあった。今後詳しく書くつもりだが、今回は少し寄り道をして、私が旧中野刑務所の正門の保存運動に関わり続ける理由について書いておきたい。

足元にあった「政治犯」の歴史

私は大学の教員であり、現代中国の社会変動をテーマとする研究者でもある。近年は、言論統制が強まる中、弾圧されている人権派弁護士、知識人、活動家らに対する聞き取り調査も行なっている。だから、旧中野刑務所(豊多摩監獄)が、治安維持法が施行されていた時代に多くの思想犯や政治犯が収監されていた場所だということを知り、急に頭を殴られたような気持ちになったのだ。

2018年1月、息子の通う平和の森小学校のPTA会合で、「旧中野刑務所の正門は危険な建物なので早急に撤去するよう申し入れたい」と、区の担当部署との間で新校舎建設の折衝にあたっているPTAの委員が発言された時、私は恥ずかしながら、中野刑務所について詳しく知らなかった。当然、正門が小学校の移転予定地に残っていることも初めて聞いた。

PTAの会合では毎回、ほとんど「議論」というものが行われず、形式的に議事が進行するだけだった。だから、立ち上がって挙手するのに少々勇気がいったが、会議が終わる直前、私は意を決して質問した。
「刑務所の門ってどういうことですか? 危険だというのはどのように確認されたのですか? 撤去することは学校内で議論して決まったことなのですか?」
当時の校長先生は、「お母さんの気持ちはわかりますが、新校舎の建設が遅れているので、早く進めなければならないのですよ」とコメントしただけで、他に誰も発言しようとしなかった。

自分の国の、自分の足元を見ていなかった。かつての日本には、おそらく、今の中国と同様か、よりひどい言論弾圧の実態があり、多くの「政治犯」が弾圧の対象となったのだ。そうした歴史を象徴する建物が残っているにも関わらず、ほとんどの人が関心を持とうとしていない。

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