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さ よ な ら は 言 わ な い

− 相模原施設殺傷事件の死刑判決とある障碍当事者の声 −

岩下紘己

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To say goodbye is to die a little
さよならを言うのは少しだけ死ぬことだ

「お゛ーい」
「はーい」
かろうじて返事をしながらも、私はまだ寝袋にもぐったままだ。

「おーーーい、起きるよーー」
今度はもっと大きな声で呼びかけてくる。6時半ごろで、外はもうすっかり明るくなっている。私は重い瞼を擦りながら、重い体を寝袋から引きずり出す。大きな欠伸をしながら「おはようございまーす」と声をかける。寝袋とマットレスを仕舞い、上田さんの顔を温タオルで拭く。メールやLINE、Facebookをチェックし、8時ごろになるとトーストとハムの朝ご飯を食べる。薬を飲み、座薬を入れ、皿を洗う。いつも通りの朝の時間。

しかし、その後が違った。せっかくだから写真を撮ろうよ、と上田さんが言ってくれた。これもせっかくだから、ということで三脚を立て、上田さんの一眼レフで写真を撮った。私が目をつぶった、上田さんが笑ってない、ちょっとカメラが近すぎる…、そうこうしているうちに時間はあっという間に過ぎ、介助の交代が近づいていた。

「ピンポーン」、インターホンが鳴る。「ガチャン」とドアが開き、閉まる音がする。廊下の足音が近づいてくる。ついに、その時がやってきた。「おはようございまーす」という挨拶とともに、交代の介助者が部屋に入ってきた。

私は椅子を立ち上がった。脇においてあるリュックを背負う。上田さんの視線に入るように、顔の正面に移動し、腰を少し落とす。

「今まで本当にお世話になりました、ありがとうございました」
「こ ち ら こ そ、本当に あ り が と う、3年間、お 疲 れ 様 で し た」
「じゃあ、また!」
「ま た ね ー」
「失礼しまーす」

私は深々と頭を下げ、部屋を出た。目頭が熱くなり、少しだけ涙で視界がぼやけた。上田さんも少し涙目だったような気がした。さよならは言わない。

玄関のドアを開ける。ふと思い出す。植松被告の死刑判決を受けて、上田さんがFacebookに投稿していた文章を。

いてはならない存在の障碍者を19人消し去った彼自身が、この世から抹殺されていく。あまりにも悲しすぎる。何のために生まれてきたのか。何のために今まで生きてきたのか。これからも僕自身に問いかけて生きたい。

植松被告は、彼がいらない存在とみなした19人の命を消し去った。同時に、自分自身の存在をも消し去った。控訴を取り下げることで、死刑を確定させた。死刑囚となり、接見禁止となる。私たち社会もおそらく、彼の存在を消し去ることに加担している。

例えばSNSで散見される、植松被告の存在を無価値とみなす類の主張はどれも、ある種類の人間を「いらない存在」とみなす点において植松被告のそれと重なってくる。

事件の前年ごろから植松被告は「障害者は死んだ方がいい」などと話すようになった。同じく2月衆院議長に「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」という犯行予告を直筆の手紙で送った。それが決定因となり、最終的に同年2月22日、北里大学東病院に措置入院となった。
入院中、植松被告は大麻を断ち切るための治療を希望したというが、主治医は近隣にある精神保健福祉センターと民間期間の薬物乱用プログラムの情報を提供したのみで、同病院での薬物依存の治療が提供されることはなかったという。

植松被告が具体的な事件の決行に思い至ったのも、単独での犯行を決意したのも、この措置入院中だったという。窓も何もない、監視カメラとトイレしかない部屋にひとりで入れられ、外部との繋がりを断たれた。

加えて退院後、植松被告は不眠や気分の落ち込みを訴えて同病院に2回通院していたが、3月に主治医が退職した後は通院せず、以降、同病院や自治体のフォローも全くなかったという。

事件を起こした年の春、イルミナティカードに傾倒していた植松被告は「自分は予言に選ばれた人間」、「自分の理想が現実になれば、世の中がピースになる」と周囲に吹聴し、親しい友人は「まるで何かに取りつかれてしまったような感じだった」と振り返る。

そして法廷での証言。「日本は滅びる」というイルミナティカードの予言への執着。こうした予言について植松被告は「やばい」と思い、「社会に貢献できれば」「重度障害者を殺すことで役に立つ」という発想に繋がったという。
さらに植松被告は「私は死刑が確定しますが、死刑で死ぬことはないと思ってるんです」という。なぜなら、その前に「日本は滅びる」のだから…。

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