いただきもの おすそわけ その3
瑞穂ちゃんと真夜中のピザ
昨年、20年近く暮らした東京から、仙台市の青葉山山頂へ引っ越した。東北をフィールドにする自分にとって、「ここ」で暮らすことは、切実なことだった。今は、宮城教育大学というところで仕事をしていて、ほぼ毎週、1時間ちょっと運転して、実家のある南三陸へ帰るというサイクルになっている。実家へ食料調達にいくということもあるけれど、何しろ仲間がたくさんいるからだ。
3月に原稿を出したきり、その後、春の風物詩の「ふきのとう」や「タケノコ」でちょっと下書きをしてみて、田植えの時期に「田んぼ」の話を下書きしてみて、なんだかしっくりこなくて、そのままPCのどこかにお蔵入りとなった。
気がつくと、お盆が過ぎてしまった。
以下、そのまま2019年8月25日(日曜日) 快晴の日記からつづける。
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少し寝坊をして10時半に仙台を出発。12時ごろには南三陸へ到着した。お盆を過ぎてだいぶ涼しくなった。ヤマセはあがっていないので、寒くはない。
今日はいろいろと約束がある。一つは南三陸町内の中学校で7年ほど継続してきた「森里海連環学」という名の出前授業打ち合わせ。講師をお願いしている大工のマイケルと蕎麦屋の風庵で食事をしてから、町内の材木製材所を訪ねることになっている。それからもう一つは、福島県二本松市から南三陸へ移住した有機農事家(とりあえずそんな風に言っておく)の菅野瑞穂ちゃんから夕食のお呼ばれ。そして時間が許せば、調査に入っている払川集落のお家で西光寺に関する古文書利用の許可をいただきに行く。この三つ。
昼過ぎに、旧入谷中学校に到着すると、マイケルは仙台の陶芸家さんに依頼された工房の木材準備をしていた。彼は木組みの伝統建築技術を持つ稀有な大工だ。釘を使わない木組みは、日本の伝統建築には欠かせない技術だが、今その技術を持つ大工はとても少なくい。京都あたりの寺社仏閣での仕事もするのだが、東日本大震災以後は木造仮設住宅を広めるべく、被災地に助太刀に来て、今は建築家の奥さん、娘さんと一緒に南三陸で暮らしている。
マイケルの中学生向けの授業はとても面白い。清水寺の舞台の土台となっている木組み工法の話から、なぜ地震大国の日本でこの工法が一千年以上も続いてきたのかを説得的に解説する。大きな地震になれば当然のように清水の舞台も揺れるのだが、柱と貫だけのシンプルな構造でありながら、その柱の揺れが免震の役割をはたし、貫は締まっていく。
この「柱」と「貫」構造のラックを、今年も中学生と一緒につくるのだ。
マイケルが設計制作した六角形の木造ジャングルジム。バージョンがいろいろあって、注文が殺到している。基本構造は、京都にある清水寺の舞台と同じで「柱」と「貫」でできている。とても丈夫だ。仲間と一緒に試験的に組み立ててみた。1時間くらいで完成。
マイケルとの打ち合わせを終えて、夕方、瑞穂ちゃんが暮らす復興住宅の一室を訪ねた。
テーブルいっぱいにお料理の数々が並んでいた。福島県二本松市から宮城県南三陸町へ移住してまだ半年も経たない瑞穂ちゃんは、この土地で畑をみつけてこんなにたくさんの有機野菜をすでに収穫していたのだった。トマト、キュウリ、ピーマン、パプリカ、ナス、ラタトゥーユ、シソ、ズッキーニ、玉ねぎ……。
瑞穂ちゃんが心を込めてつくってくれた料理をいただきながら、福島のこと、二本松のこと、両親のこと、畑を耕すこと、これから彼女がやりたいことなどをパズルを並べるように聞いていた。瑞穂ちゃんが考えぬいて南三陸までたどり着いた経緯については、これから行く行く話していくつもりだ。瑞穂ちゃんもここに書いてくれるだろう。
長年耕してきた二本松の風土と、南三陸のそれは全然違う。異郷の気候と土壌を耕しながら、瑞穂ちゃんは何を思っているだろう。あたたかい二本松の気候風土から移住して、夏には冷蔵庫の中のように冷たいヤマセの吹く厳しい三陸で有機農業に挑戦するのは並大抵のことではない。私も瑞穂ちゃんも百姓の子どもで、心情として共有していることは多いけれども、それでも私はまだ、瑞穂ちゃんの「絶望」を知らない。
南三陸から仙台への帰り道、「「安心」を得たかった」という瑞穂ちゃん話を思いかえしていた。ひとにとって「安心」って何だろう。故郷を離れた「安心」って何だろう。
真夜中の仙台へ着いても眠れそうになくて、風庵の都さんと洋一さんからもらってきたケチャップ用のトマトと小麦とフスマでピザをつくった。まずはトマトを煮詰めてケチャップをつくって、小麦とフスマを混ぜてピザ生地をこねて、朝方3時の真夜中のピザ。
土地と紐づいた食の豊かさについて、ここでは書いていこうと思っていた。でも、それができない土地があって。「安心」って何だろう。