〈自由〉の〈門〉をめぐる話 その4
なぜ「平和」がタブー視されるのか
実は私は、これまでに何度も平和の森小学校や中野区教育委員会に対して手紙を書き、中野刑務所(豊多摩監獄)を含む地域の歴史を学ぶ有志の勉強会を、平和の森小学校で開きたいと伝えてきた。
特に、低学年の子どもにとっては内容的に難しいだろうし、刑務所の歴史となると、恐怖心を抱く子どもがいるかもしれない。だからこそ、関心のある保護者や地域の人たちが集まり、どのように地域の歴史を学び、伝えることができるかを考え、自由に議論する場を設けたいと考えたのである。
しかし、今に至るまで、この私の要望は聞き入れられていない。文書での回答は受け取っていないが、小学校校長及び仲介を頼んだ区議会議員から口頭で、「学校でこのような集まりを開くことを教育委員会は認めない」と伝えられた。

旧中野刑務所の正門について、「保育園や学童を整備するなど、急を要する課題もあるのだし、門をどうするかなんて重要な議題ではない!」という意見もある。
実のところ、私の周辺にはこの問題に対して、公に、積極的に意見を言おうという人はほとんどいない。門の保存決定が新聞やテレビで報じられているのに、関心が広がっていかない現状を前に、私は「もう期待しないほうがよいのか」と思うことさえある。
人類史的な観点から自国の文化や歴史を俯瞰するような、文化的成熟には、未だ遠い位置に、日本社会はあるのだろうか。
文化財だから、歴史的に価値があるからと、私の考えを押し付けるわけにもいかない。「意見の相違で地域や学校がゴタゴタするのは嫌」という人も、いるだろう。
だがここで私は、地域の大多数の人は、門についての基本的な知識や情報さえ持っていないのだということを、声を大にして言いたい。地域の歴史を学び、その伝え方について考える開かれた場があり、多くの人が積極的に議論に参加した上で、「これ以上論争は避けましょう」という結論に達したのであれば、私ももう反論する気持ちを持たないだろうが……。
本稿の冒頭で香港について触れた。香港の情勢は決して楽観できるものではない。平和的に、理性的に活動に参加する人が大半だが、異なる考えを持つもの同士が罵り合い、暴力を行使し合う局面も出てきている。
しかし、香港の多くの人たちは自由に思考し、自らの行動を選んでいる。彼らは主体的に道を選び取ることが、人間らしく生きることにつながると信じているからだろう。目の前のリスクを減らすことに執着し、長期的な視野から物を考えることができない日本人に欠けている姿勢ではないだろうか。
- 写真は全て筆者撮影