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東アジアのクィア・アクティヴィズム 福永玄弥 番外編

安全な空間と不適切な身体

-ピョン・ヒスさんを追悼して―

冷戦、徴兵制、性政治

軍事主義とその象徴としての徴兵制や軍隊は、韓国の現代史を語るときに避けてとおることのできない問題である。歴史的には、朝鮮半島ではじめて徴兵制が施行されたのは日本植民統治下の1944年のことである。このとき朝鮮総督府はこれを「内鮮一体」の証とし、臣民に対する特権の付与であると喧伝した。

日本の敗戦と植民統治からの解放後、まもなく冷戦体制に組み込まれた朝鮮半島で大韓民国は1949年に兵役法を公布し、朝鮮戦争の最中の51年に男子徴兵制を施行した。韓国は米国のアジア戦略における「反共(反共産主義)の砦」と位置づけられ、分断国家という困難な政治状況を背景として独裁政権は軍事化を強力に推進した。徴兵制は軍事化の中核をなす施策として朴正煕政権下(1963-79)で運用が厳格化され、現在に至るまで韓国社会を規定している。

軍事組織は国家が独占的に所有する正当な暴力手段だが、男子徴兵制は国民国家の軍事組織に参与できる資格を男性のみに付与することによって女性を「二級市民」として処遇してきた。男子徴兵制は女性差別を正当化するイデオロギー装置であったことから、1980年代以降の韓国民主化の潮流のなかで発展したフェミニズムや女性運動が、ジェンダー平等の実現を阻害する象徴として男子徴兵制を批判の対象としたことも不思議ではない。*5

ただし厳密にいえば、男子徴兵制はすべての男性を兵として徴収してきたわけではない。兵役法は国籍を持つすべての男性に徴兵検査を課して国防に適切な男性身体とそうでない身体とを弁別し、後者を軍にとって不適切な身体として制度から排除してきた。同性愛者やトランスジェンダーは排除の対象とされたのである。

すなわち、徴兵制や軍隊は国家による女性差別や、非規範的なセクシュアリティに対するスティグマや差別を構築するとともに正当化しきた歴史を持つ。ピョン・ヒスさんの事例は、このような歴史に位置づけて考察すべき問題である。

ピョン・ヒスさんに話を戻そう。重要なのは、ピョンさんを強制除隊とした軍の根拠である。ピョンは性別を移行したという理由で軍を除隊させられたわけではなかった。実際、軍は性別移行の地裁判決を待つことなく強制除隊の方針を決めている。

つまり公的=法的には依然として男性であるあいだに、ピョンさんは除隊処分をくだされたのである。軍が問題としたのは性別ではなく、ピョンさんが性別適合手術を受けたという事実であった。正確に述べるなら、ピョンさんは法的には男性とされる状態であり、そうである(男性身体)ならば当然持つべきとされる陰茎と睾丸を欠いていたという事実が国防部や陸軍の関心を集めたのである。

ピョンさんは性別適合手術を受けて部隊に復帰したのち軍医による検査を義務づけられているが、そこでは陰茎と睾丸が切除されたことを根拠として、「心身障害3級」の判定が下されている。審査委員会はこの判定にもとづいて除隊処分を下したのである。なぜ軍は陰茎と睾丸の欠如がこれほどまでに重視されるのだろうか——それじたいが軍での服務や生活に支障をもたらすわけではないにもかかわらず。国防部や陸軍はこれに対して納得のゆく説明をしていない。

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