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東アジアのクィア・アクティヴィズム 福永玄弥 番外編

安全な空間と不適切な身体

-ピョン・ヒスさんを追悼して―

トランス女性の排除を主張するフェミニスト(TERF)

ピョンさんに対する攻撃には、一部の保守メディアだけでなく、トランス女性の排除を主張するフェミニスト(Trans-Exclusionary Radical Feminist:以下「TERF」)が積極的に加担したことが明らかになっている。韓国で近年フェミニズムが爆発的な盛りあがりをみせていることは日本でもよく知られるが、「生物学的女性(身体女性)」こそが「真の女性」であると標榜してトランス女性を女性たちの空間や運動から排除する動きやこのことをめぐる議論が、主に若年層のフェミニストの間で活発になっているのだ。

なぜトランス女性を女性たちの空間から排除しなければならないのか——トランス女性は男性身体の持ち主だからである、とTERFは主張する。2010年代半ばのフェミニズムやMeTooムーブメントの背景には、女性たちの安全に対する危機感があった。そのことを象徴する二つの事件を紹介しておきたい。

2016年5月、江南駅近くの男女共用の公衆トイレに潜んでいた30代の男性が、先に来た6人の男性をやり過ごした後、入ってきた22歳の女性をナイフで殺害するという事件が起きた。警察はこれを「無差別殺人」としたが、女性たちはこれを「ミソジニー(女性嫌悪)殺人」と再解釈して怒りの声をあげた(この事件は「ミソジニー」という学術用語が社会に広く知られる契機にもなった)。

もうひとつは「n番部屋事件」である。「n番部屋」では、未成年を含む女性たちのわいせつな動画がテレグラムをつうじて共有されたが、その視聴者が26万人を超えていたという事実が2020年に明るみになり、衝撃をもって受けとめられたのである。「n番部屋」は賭博サイトともつながりを持ち、女性の搾取をつうじて形成される「男の連帯ネットワークであるデジタル共同体」であった。*14

女性たちの安全が男性によって脅かされること、女性に対する性的搾取をつうじて男性たちが連帯して利益を享受していること。これらに対する怒りが近年のフェミニズムの盛り上りを支えたが、TERFはこうした女性の経験が生物学的な領域に由来すると考える。このような認識が、保守派による同性愛者やトランスジェンダーへの嫌悪言説と遭遇し、女子トイレや女子大のように女性にとって安全な空間が「男性身体」によって脅かされるという不安を煽って、トランス女性を「潜在的な犯罪者」と同定する嫌悪言説がオンライン空間で広がり、支持を集めたのである。*15

実際、トランス女性であることをカミングアウトしたピョンさんに向けられた典型的な批判は、ピョンさんが女性として認められたら女性兵士の安全が損なわれるとするものであった。女性兵士の空間(宿舎、トイレ、浴場)に「男性身体が侵入する」というトランス排除の言説が、TERFや一部の保守メディアによって拡散されたのである。*16

フェミニズムにとってツイッターやブログなどのオンライン空間が重要な活動の拠点であるのと同じく、トランス嫌悪言説もオンラインで拡散されている。TERFやトランス嫌悪言説を対象とする実証研究は、これまでのところ存在せず、トランス排除の言説に親和的なフェミニストが実際のところどのような属性(年齢層、階層、セクシュアリティなど)に分布し、どれくらい広がりをみせているのかを知ることはできないが、TERFの運動やトランス排除の言説がオンライン空間を超えて深刻な広がりをみせているのは事実である。

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