東アジアのクィア・アクティヴィズム 番外編
安全な空間と不適切な身体
-ピョン・ヒスさんを追悼して―
韓国の男性は19歳の誕生日を迎える年に徴兵検査を受けなければならないが、徴兵検査で身体や精神になんらかの疾病や障害を持つとされ、現役として服務することに困難があると判定された男性は不合格と判断され、兵役が免除される。*6
この徴兵検査においてトランスジェンダーと同性愛は「性同一性障害および性選好障害」という項目に分類され、その「症状」の程度に応じて合否が判断されてきた。*7
では、トランスジェンダー(「性同一性障害」)の「症状」はどのような基準にもとづいて判断されるのだろうか。国防部はやはりこの点を明らかにしていないが、次の事例から推察してみたい。
2014年、医師によって「性同一性障害」と診断され、ホルモン治療を受けていたトランス女性が、兵務庁によって「兵役を逃れる目的でホルモン投与をした……偽物のトランスジェンダー」と判定された。彼女は兵役免除を希望したが、兵務庁はこれを認めなかった。兵務庁は彼女の身体に陰茎と睾丸が残っていたこと、つまり彼女が外性器の再構成手術を受けていなかったという事実を根拠に「兵役を逃れる目的でトランスジェンダー女性であるふりをした」とみなしたのである。*8
この事例は、「真のトランスジェンダー」であるか否かを判断する根拠が医師の診断やホルモン治療でなく、陰茎と睾丸の有無に置かれているという事実を暴露する。このことを裏づけるように、徴兵検査の疾病分類は陰茎や睾丸、勃起機能、精子数、すなわち生殖能力に関する詳細な規定であふれている。詳しい資料や議論はここでは省くが、軍は生殖能力や機能に問題があるとみなした男性を排除することによって、次世代の国民を再生産し国家に貢献しうる男性身体こそが「正常な男性」である、という規範を構築してきたのである。*9
徴兵制による男性身体の選別の歴史をふり返ったとき、陸軍がピョンさんの身体に(あるべき)陰茎と睾丸がなかったことを規範からの逸脱とみなして除隊処分をくだしたことも驚くにはあたらない。陰茎や睾丸を欠いた男性身体は「正常な男性」規範を再生産してきた軍にとって不適切な身体にほかならないからである。
ルインの指摘によれば、陰茎の有無に固執した徴兵検査は軍の専売特許ではなく、歴史的な広がりを持つ近代医学に支えられている。*10
医師が新生児の性別を判別する根拠として重視するのがホルモンや染色体でなく陰茎の有無であることはよく知られるが、近代医療は外性器とその再生産(生殖)能力にもとづいて規範的な男性性を構築してきた。異性間で再生産することが可能な陰茎を持った身体のみが男性として承認され、逆にいえば、陰茎を持った身体は本人のジェンダー認識や性自認とかかわりなく男性でなければならないとされるのだ。
ピョンさんは、しかし女性として服務することを望んだ。性別を移行するにあたって、実際のところ性別適合手術は重要な要件とされている。韓国には日本の性同一性障害者特例法(2003、以下「特例法」と略記)のように性別変更の要件を厳密に定めた法律はないが、2006年に大法院(日本の最高裁に相当)が公表した「性転換者の性別訂正許可申請事件等事務処理指針」が性別変更を取り扱う際の指針として参照されてきた。
問題は、日本の特例法を参考につくられたこの指針が、特例法と同じく「性別適合手術を受けて外性器を含む身体の外観がすでに変更されていること」や「生殖能力がなく元の性に戻る蓋然性をもたないこと」を性別変更の要件としている点である。 *11
ピョンさんが性別適合手術についてどのように考えていたか知る術はもはやないが、性別を移行して女性として服務するために性別適合手術を受けるという彼女の判断はきわめて合理的であったと言えるだろう(実際、陸軍による強制除隊の通告から約3週間後の2月10日には裁判所がピョンさんの性別訂正を認めている)。*12
上述のとおり、国内外の多くのニュースはピョンさんを支持して軍の保守的な姿勢を批判した。軍人権センターも一貫して支援活動を続けてきた。国家人権委員会も陸軍に勧告を出すにとどまらず、2020年にはトランスジェンダーに対する差別を解決すべき社会問題と位置づけて大規模な社会調査を実施し、その成果を『トランスジェンダー嫌悪差別実態調査』として公開している。*13
軍の上官や同僚にもピョンさんを支持する仲間は少なくなかった。一方、ピョンさんに対しては、悪意に満ちた攻撃的な発言やトランス女性に対する嫌悪発言が、とりわけオンライン空間で集中的に向けられた。