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東アジアのクィア・アクティヴィズム 福永玄弥 番外編

安全な空間と不適切な身体

-ピョン・ヒスさんを追悼して―

もう一人の彼女

ピョンさんが強制除隊を通告された1週間後の2020年1月30日、あるトランス女性がソウル市の淑明女子大の入学試験に合格したことを報じるニュースが韓国国内のメディアを席巻した。合格したのは2019年8月にタイで性別適合手術を受け、10月に裁判所で性別の訂正が認められたトランス女性であった。韓国の女子大でトランス女性の入学を認めた最初の事例である。

これに対し、女性の安全な空間が「男性身体」によって脅かされることに危機感を抱いた淑明女子大学や梨花女子大学などソウル地域の6つの女子大の21団体が2月4日に「女性の権利を脅かす性別変更に反対する」と題した声明文を公表した。

女性団体連合は声明文のなかで「女子大は男性が女性の認定を受ける手段となる場ではない」として、女性大によるトランス女性の受け入れを批判した。これらの女子大や学生団体は韓国のフェミニズムや女性運動の発展を支えてきた組織でもある。ツイッターでもこの声明文を支持する声が拡散された。自身の入学に反対する声の大きさやトランス女性に対する嫌悪感情の深刻さに恐怖を感じた当事者女性は、淑明女子大への入学を断念した。

陰茎を持って生まれてきたことを唯一の根拠としてトランス女性を「男性身体」すなわち潜在的犯罪者とみなし、女子大からの排除を主張するTERFの論理は、陰茎の欠如を規範的な男性身体からの逸脱として軍から排除した国防部の方針と親和的である。どちらも、性器の形状と性自認とのあいだに一貫性がなければならないとする保守的なジェンダー観に依拠し、そのジェンダー観を守るためには他者の性自認にかんする自己決定権を侵害することさえ厭わない。

2020年3月、進歩派メディアとして知られる「ハンギョレ」が陸軍から除隊されたピョン・ヒスさんと女子大への進学を断念したハン・ジュヨンさん(仮名)のふたりをつなぎ、彼女たちの手紙のやりとりを公開した。*17

自身の将来について、ハン・ジュヨンさんは「法曹人になって社会から疎外された人々を助けたい」と書き、ピョン・ヒスさんは「(軍隊への)復職後、いつか時間が流れ、退役というものをするようになったら、私を助けてくださる方々のように社会活動家になって、第2、第3のピョン・ヒスまたはハン・ジュヨンを支援してあげたいという新しい夢ができました」と手紙に記した。ふたりは同い年の22歳であり、未来を夢みる若者であった。

その手紙を記した半年後の2020年8月、ピョンさんは陸軍参謀総長に対して除隊の取り消しを求める訴訟を起こした。2021年4月15日に第一回口頭弁論を控えていた。

ハン・ジュヨンさんに宛てた手紙のなかで、ピョン・ヒスさんが言う。
「私たち皆、お互い頑張りましょう。死なないようにしましょう。必ず生き残ってこの社会が変わるのを一緒に見たいです」

しかしピョンさんが社会の変化を見届けることはかなわなかった。2021年3月3日、ピョンさんは自宅で亡くなっているところをカウンセラーによって発見された。23歳だった。

——ピョン・ヒスさんのご冥福を心よりお祈り申しあげます。

写真 5
図5 トランスジェンダーの追悼と、性的少数者を含む差別禁止法の制定を呼びかけるオンラインデ モ。2021年3月21日22時13分、24993名が参加した。 出典:https://dotf.kr/promise

本稿の執筆にあたっては밤짱、Yukiちゃん、Minsoo Kimさん、ツイッターやフェイスブックで写真や資料を探す私の呼びかけにご協力をくださった韓国のフェミニストやクィアたちにお礼を申しあげます。

参考文献・資料

*1 ピョン・ヒスさんは、いま私が執筆中の「冷戦体制と軍事マスキュリニティ」と題した論文でとりあげている女性である。本稿で展開する議論の多くは「冷戦体制と軍事マスキュリニティ——台湾と韓国の徴兵制を事例に」と題した拙稿に依拠している。拙稿は科研基盤研究(B)「東アジアにおける家族とセクシャリティの変容に関する比較史的研究」(小浜正子代表)の成果として京都大学学術出版会から出版予定の論文集(近刊予定)と、現在執筆中の博士論文にそれぞれ異なるバージョンで収録される予定である。

*2 ピョン・ヒスさんの記者会見を配信したYouTube動画のコメント欄は、ピョンさんに対する個別の批判というよりはトランス女性に対する嫌悪言説であふれかえっている。閲覧には注意してください。

*3 出典: 김형남(2021)「변희수는 왜 그렇게도 군을 믿었나」

*4 たとえば「トランスジェンダーで揺れる韓国」共同通信、2020年4月2日

*5  日本語で読むことのできる重要な研究として、권인숙(2005)『대한민국은 군대다: 여성학적 시각에서 본 평화, 군사주의, 남성성』청년사(山下英愛訳、2006年、『韓国の軍事文化とジェンダー』御茶の水書房)がある。

*6  徴兵検査の基準は国防部の「兵役判定身体検査等検査規則」(制定時の名称は「徴兵身体検査等検査規則」)である。この規則は1965年から現在までに31回にわたって修正されている。

*7 現在は、同性愛である、あるいは同性愛とみなされたことを根拠に兵役が免除されることはない。ただし軍刑法が男性同性間の性行為を「わいせつ行為」として違法行為とするなど、軍隊では同性愛者の兵士に対する差別やスティグマが保持されている。詳細は注1で言及した拙稿を参照。

*8 ここで言及した事例については以下を参照。루인(2017)「남성 신체의 근대적 발명」권김현영(엮음)『한국 남성을 분석한다』 교양인:105-153.

*9 詳しくは注1で言及した拙稿を参照。

*10 루인(2017)「남성 신체의 근대적 발명」권김현영(엮음)『한국 남성을 분석한다』 교양인:105-153.

*11 これらの要件はリプロダクティブ・ライツを侵害する要件として韓国国内でも批判の声がみられる。

*12 ただし、日本の特例法と異なり、韓国の「性転換者の性別訂正許可申請事件等事務処理指針」は法的強制力を持たない。実際、この指針で挙げられているすべての要件を満たさずとも性別変更が認められた事例が複数報告されている。

*13 報告書は韓国語だが、国家人権委員会のウェブサイトからダウンロードすることができる。

*14 影本剛(2021)「韓国現代フェミニズムにおけるTERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト)批判――『文化科学』(2020年冬号)掲載論考紹介」 LEFT STAND HOMERUN

*15 保守派の嫌悪言説については本サイトの拙稿を参照。またTERFと保守言説の遭遇については以下を参照。이효민(2019)「페미니즘 정치학의 급진적 재구성:한국 ‘TERF’에 대한 비판적 분석을 중심으로」문화과학(2020겨울호)

*16 注2で紹介したYouTube動画のコメント欄を参照。

*17 「トランスジェンダーの軍人と淑大合格者の往復書簡『社会が変わるのを一緒に見たい』」ハンギョレ、2020年3月17日。「ハン・ジュヨン」という仮名はハンギョレを参考にした。

ふくながげんや クィア・スタディーズ、社会学、地域研究(日本、台湾、中国、韓国)

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