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『ひらけ!モトム』によせて

2023年5月、広島~江田島 世田谷に暮らす団塊世代の重度身体障害者・上田さんの旅

その0

モトム、故郷に帰る

出発 編

旅の提案から出発まで(つづき)

4月28日のモトム指令:
「広島の天気予報が6、7日に雨っぽいですが、最悪レンタカーを借りようかと思っています。運転免許証をお持ちですか?」
――すみません、もってないです。運転できる適任の介助者がみつかるようなら、交替してもらってかまいません。うまくいきますように。

4月30日のモトム指令:
「残念ながら見つかりそうにありません。宜しくお願いします。」
――御意。

5月1日のモトム指令:
「チャンさんのお友達が広島にいて、我々の旅行のヘルプをしてくれることになりました。まず行く日の6日の時に、広島駅に介護タクシーを頼んでくれました。」

「一緒に乗れる人が1人しかいないので、あと2人はタクシーでホテルまでついてきてください。7日はチャンさんとそのお友達だけで宮島に行ってもらいます。」

「肝心の8日ですが、雨の様子を見ながら我々だけで(イワシタ君も同行)学校まで、徒歩で行く予定です。あまり学校に滞在する時間がないので、校長とお話ができないと思います。恨みの雨になりそうです。」

なんと。
広島はG7をひかえ、いろいろ規制もはじまっているのではなかろうか。
6日はチェックイン後、あまり動けないかもしれないが、7日はどうしましょう。

モトム指令 5月1日:
「雨の具合にもよりますが、原爆資料館に行ってみましょうか?」

モトム指令 5月4日:
「よろしくお願いします。相変わらずお天気が雨模様の予報です。動き方をもっと練ってみます。」

おなじく5月4日:
「7日の午後2時から、タクシーで平和公園(原爆資料館)まで行くことにしました。
帰りは5時の予定です」

そして出発前日、5月5日のモトム指令:
「明日の広島駅からリーガロイヤルホテルまで、朝日タクシーという介護タクシーが迎えに来てくれる事になりました。4人全員同じ車両に乗れるそうです」

「今更ワガママですが、我が家まで来てもらって新横浜まで同行してもらえませんか? キャスター付きのキャリーバックを一緒に持って行って欲しいのです」

――了解です。

5月6日(土) 世田谷:快晴やや強風 広島:雨 

新横浜で4名全員集合を、急遽予定変更して、モトムさん宅に私も向かうことに。

主たる介助者(こういう言い方ってあるのだろうか)であるツルさんは、モトムさんの車椅子を、もちろん両手で押すので、そしてただ押すのではなく、全身でモトムさんの意思確認、周辺の安全確認、足元の段差の幅の感知、接近する歩行者を柔軟に感じよくかわすなどの重責を担う。なので、モトムさんの旅荷物の入ったキャリーバッグを引っ張ることはできない。自宅を出るときから、もう一名必要だと、前日気がついたのだった。

出発当日。
5月6日、快晴で汗ばむ陽射しと強風の中、世田谷線上町のマンションのモトム宅を出る。世田谷線は、なかなかバリアフリーだ。終点の三軒茶屋駅から田園都市線に乗り換える。

三軒茶屋駅はコンコースが画期的で、東急田園都市線と世田谷線の接続をかなり助けてくれる。地上と地下の2本の東急線と首都高と246が通り、小規模商店街がそこに連なるごちゃごちゃ感のなか、中庭的な吹き抜けをエレベーターで降りて乗り換えることができる。アートな噴水施設や壁画作品は、現在は水もあまり浪費されないようになっていて、ちょっと寂しい感じはあるけれども。

通過時、モトムさんの車椅子を押しながら、ツルさん曰く。
「とってもおしゃれだったんだよね、できた当時。」

 >> ここですこし、世田谷区のバリアフリー関連について、脱線。

  •  地下を走る東急田園都市線の開通は、モトムさんが世田谷に移ってくる1978年の前年、1977年だ。それ以前は今の世田谷線と同じ路面電車(玉川線)だった。そして、田園都市線の地下駅と、世田谷線の地上駅をつなぐ広場~地下通路が整備されたのは、複合ビルのキャロットタワーの完成と同時の1996年。ちょうどモトムさんが、車椅子のバス乗車を拒否した東急を相手に公開謝罪を求めて団体交渉をつづけ、運輸省の警告を引き出し(93年)、ヨーロッパ視察(95年)までして導入をもとめたノンステップバスが走り始める(97年)、という大変化の時期にかさなる。
  •  このときにできた、いまも現役の「おしゃれでアートな」通路はこんな感じである(出典:PORTAL SITE OF PUBLIC ART, 三茶パティオ “Sancha Patio”
  • 交通機関だけではなく、同じ空間にある「世田谷パブリックシアター」は、地域に開かれた劇場として構想され、70~80年代からの羽根木公園の雑居祭りやアジア民衆演劇祭などの動きとも連動していた。世田谷区のホームページより: 世田谷の都市デザイン「1981年(昭和56年)から実施した梅丘地区における「福祉のまちづくり」のモデル事業を契機として、公共施設のバリアフリー化を進めるとともに、「やさしいまち」の普及・啓発に取り組んできました。現在は、バリアフリーの取り組みを一歩進め、「バリアを最初から作らない」、「どこでも、誰でも、自由に、使いやすく」という「ユニバーサルデザイン」の考え方に基づく生活環境の整備を推進しています。」
  • 同じく世田谷区ホームページより: 三軒茶屋・太子堂四丁目地区市街地再開発事業「「三軒茶屋・太子堂四丁目地区市街地再開発事業」により、平成8年にキャロットタワーや東急世田谷線駅前の広場、タワーと東急田園都市線駅を結ぶ地下道が整備されました。」
  • 当時からのモトムさんたちの運動と、行政や市民の人的交流と模索は、現在に太く、つながっている。詳細は『ひらけ!モトム』参照。

モトムさんの補足1 :

僕がこのパルテノン(現在の住まい)に来たのは、79年からでした。駅の改修工事は、仰る通りだったと思います。前の東京オリンピックの時に田園都市線ができたと言われていたので(1964年起工式)、当時はまだただの地下鉄だったと思います。ああいう駅になったのは、キャロットタワーを造ったとき。

モトムさんの補足2 

実は身内話になりますが、世田谷区に当時「都市デザイン室」という街づくり担当の課があり、「太陽の市場」(モトムさんの当時の演劇や創作活動のグループ)の仲間の一人がここに入って、バリアフリーの考え方を世田谷区に植えつけた時期がありました。ノンステップバスを、三軒茶屋のキャロットの広場に持ってきて披露した事もありました。その人は今は武蔵野美術大学の教授をやっています。

 >> 話をもとにもどそう

ツルさんがチケット購入で離れている間、モトムさんが語る。
「ツルさんは小さいころ、このあたりに、住んでいたんだって。」

モトムさんが世田谷で自立生活を始めて以降、介助者としても30年以上のつきあいになるツルさんは、世田谷地元民だった。

 

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