難以言喻的香港生活所思 ―香港の現在、言うに言われぬ思い-
番外編 香港、抗う人びとの歌 1*1
倉田明子
香港の市民運動の現場では、よく歌を耳にした。香港の人は歌が好きなんだ。そう思っていた。香港の歌、特に「抗いの歌」について、書いてみたい。
香港という街
まず、香港という街の成りたちを簡単に見ておこう。
香港は「逃亡者の街」と言われる。香港が植民地になった時*2 から、いつでも、大陸で何か起こると人びとは香港に逃げ込んだ。戦後だけを見ても、中華人民共和国が成立する過程で内戦があり、その後も数十年にわたって政治的混乱が続くなか、おびただしい数の人びとが安全な香港へと殺到した。だから、いまの香港の人びとの多くは潜在的に、共産党政権であるところの中国本土に対して警戒心や恐怖心を抱いている。
一方で香港は戦後、中国本土のさまざまな混乱や停滞を脇目に、高度経済成長をとげる。経済力への自信や独自の文化への誇りを土台に、香港人意識が高まっていった。その独自の文化のひとつとして、広東語も重要な役割を果たしたように思う。
中華人民共和国の標準語(普通話)は北京語がベースだ。広東語とは発音も語彙も異なり、会話が成り立たないレベルの言語的な距離がある。たとえ広東語ネイティブでなくても、香港に来た人びとは、住民として暮らすうちに生活言語としての広東語を習得した。英語の語彙を取り入れた香港独特の単語も生まれた。香港には「香港の広東語」があるのだ。
Cantopop(広東語ポップス)
香港には「香港の歌」もある。1970 年代、Cantopop と呼ばれるポップソングが生まれた。広東語で歌われるのが特徴で、その歌詞も、文語調の歌もあれば、話し言葉としての広東語そのままの口語の歌もあり、幅が広い。また抽象的な奥の深い歌詞も多い印象だ。オリジナル曲ももちろんあるが、外国曲のカバーも多く、特に 80 年代・90 年代には日本の歌のカバーも大流行した。
Cantopop は香港だけでなく、中国大陸や東南アジアでも流行し、きわめて大きな文化的な影響力を持っていた。ただ、歌詞の中身を見ていくと、とてもローカルな、「香港がわれわれの家である」という香港人の思いが込められているような歌も多く、それが香港人の心をつかんだ。
*1 東京外国語大学ダブルディグリープログラム「公共圏における歴史(HIPS)」(2021年12月11日)オープンレクチャー「人は歌う」でのレクチャーの内容に加筆した。
*2 香港は1842年から1997年までイギリスの植民地だった。香港はその歴史的経緯から、3つの地域に分けられる。1842年に割譲された香港島、1860年に割譲された九龍半島、そして 1898年に租借された新界。租借期限は99年だったので、1997年に期限を迎えた後、香港がどうなるのかが、戦後の中英の外交問題になった。1984年、「中英共同声明」によって、香港は割譲された地域も含む全地域が中華人民共和国に返還されることになった。1997年7月1日の返還後、香港では「一国二制度」が実施され、社会主義国である中華人民共和国の一部でありながら、資本主義の諸制度がほぼそのまま継続されていた。
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