難以言喻的香港生活所思 ―香港の現在、言うに言われぬ思い-
番外編 by Age. I
外部記憶装置的寫眞群
私は表現することが好きではない。それどころか嫌悪すらしている。であるにも関わらず、なぜ写真を撮るのか。写真を表現手法としてではなく “ Stand-alone ” な「外部記憶装置」と捉え、私自身が存在したことを客観的事実たらしめようとしてるからだ。これは私自身の認識を、記憶を、そして存在を信じ切れないゆえのことである。
人間の記憶は信用に値しない。視点が異なれば「起こったこと」は「無かったこと」にだってなるし、いつかの「藝人」や「民主活動家」が「テロリスト」になることもあるであろう。個々人が持つ記憶は Stand-alone ではない。社会に大きく影響される。社会構築主義では事物に対する認識は言葉を媒介に構築されるとされているのだが、そもそも言葉が持つ意味自体が曖昧かつ非常に流動的だ。端的に言えば、私たちは言葉という記号に対して経験に基づく別個のイメージを与えているに過ぎない。余談になるが、歴史教育の難しさはここにあるのだろう。
信用に値しないのは写真も例外ではない。写真の改竄はアナログ時代から行われているし、改竄がなくとも展示方法やキャプション次第で本来(撮影者あるいは被写体、又は双方)の意図とは相反するメッセージを恣意的に伝えうる。しかし、初発の動機である自己の存在を確認するという点に絞れば記憶と符合する写真が実在するだけで充分なのだ。
撮影した写真を見返すことで、私自身の存在を確認すると共に様々な記憶をも想起する。何を考えながら、あるいはどんな気持ちで被写体を見つめ、シャッターを切ったのか。その前後に何が起こっていたか。これらの殆どは、写真が実在しなければ時を経る毎に曖昧となり忘却されてしまう類のものだ。
ここまで、写真をめぐり長々と言葉を綴ってきたのだが、改めて嫌気が差す。この世はあまりにも曖昧すぎる。そして、ここから先へと筆を進めるには言葉を綴ること、あるいは香港で撮影した写真をこの連載に提供することで生じる大きな矛盾にも言及しなければいけない。意訳すれば、なぜ「表現をしているのか」になるだろう。その答えは、静かな大衆であり続けることに疲れたほかならない。
英国が残した軍事施設。激戦の地、香港理工大学の真向いに立地しており、現在は中国人民解放軍が使用している。あの日、大学構内で戦った彼らの目にこの施設の存在はどのように映っていたのだろうか。
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