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難以言喻的香港生活所思 ―香港の現在、言うに言われぬ思い-

その4 ANIBOU
(日本国籍、日本在住、大学2年、20歲)

 

今年の春ごろのことだったと思う。

出先で僕はデモに遭遇した。プラカードには「ウイグルでの人権弾圧を許すな」「ウイグル自治区を救え」などと書かれていた。デモ隊は「命を守ろう、行動を起こそう」と声高に叫んでいた。

デモ隊の主張は正しいと僕は思った。ウイグル自治区で行われている人権蹂躙は決して看過できない、極めて深刻な問題だ。中国政府に対し、粘り強く批判の声をあげつづけることの重要性は強調しすぎてもしすぎることはない。大手メディアの報道に任せることなく、SNSやデモといった草の根レベルでの批判を展開することも非常に大切なことだろう。でも僕は、デモ隊の姿を見て違和感を抱いた。彼らが旭日旗を片手に「正しい」主張をしていたからだ。

香港の問題に関しても、全く同様のことが起きていると僕は思っている。
香港の現状は厳しい。国家安全維持法のもと、露骨な言論弾圧が幅をきかせている。民主主義を求める活動家らは相次いで逮捕されている。民主派団体も、一つ、また一つと姿を消していく。

だからこそ、私たちは声を上げつづけなければならない。私たちは自由民主主義を希求する香港の人々に対し、支持を示しつづけなければならない。できる限りの援助をしつづけなければならない--こういった声を、よく耳にする。もちろんその通りだ。

だけど僕はこうも思う。足元をすくわれないように、ここでこそ立ち止まった方がよいのではないかと。ここでいう「私たち」とは一体誰のことだろうと--より正確には、ここでいう「私たち」とは一体誰のことであるべきなのだろうかと--自問した方がよいのではないかと。

なぜなら、「私たち」という曖昧な表現には狭隘なナショナリズムが入り込む隙があるからだ。そして一たび狭隘なナショナリズムがそこに染みこんでしまえば、香港問題の(あるいはウイグル問題の)批判として、不誠実かつ不十分なものへと成り果ててしまいうるからだ。僕が遭遇したデモ隊の人々は、いわば「私たち」に「日本人」を代入していたのだと思う。彼らの主張はこうだろう。「日本人としてウイグル問題に声をあげなければならない」。同じことが香港問題に声を上げる日本人の一部にも当てはまるはずだ。「日本人として香港問題に声をあげなければならない」。

でも僕は、「日本人として」という部分に不満と懸念を覚えずにはいられない。

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