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歌は消えない ー 暗い時代の香港ポップスヘッダー画像

難以言喻的香港生活所思 ―香港の現在、言うに言われぬ思い-

番外編 歌は消えない -暗い時代の香港ポップス-

小栗宏太

2021年の暮れ、香港のネットメディア立場新聞が「少なくとも歌はある」(至少有歌)というタイトルの特集を掲載していた。

多くのものが消えた、この年の香港を象徴するようなタイトルだと思った。
記事の中には「2021年は、香港人のカントポップ(広東語ポップス)への情熱が前代未聞に高まった年だった」と書かれていた。
それは私の個人的な印象とも一致していた。

日本からニュースを見ているだけでも気分が重くなるような暗い話題の続く香港で、音楽シーンだけは、返還後最大と言ってもいい盛り上がりを見せていた。新世代の歌手たちが次々と登場し、社会現象化するほどの人気を博すグループもあらわれた。SNSも音楽や芸能に関する話題で持ちきりになり、動画投稿サイトを見ても、若手アーティストたちを賞賛するコメントで溢れていた。音楽番組や音楽チャート、音楽賞をめぐる話題が、人々の日常会話の主題に返り咲いた。

この上なく暗かった2021年の香港は、これまでにないほど多くの人が音楽に夢中になった1年でもあった、と思う。

歌は残ったのだ。

私がその特集を目にしてから1ヶ月もたたないうちに、立場新聞は廃刊した。「扇動的な報道」を理由に幹部が逮捕され、資産を凍結されたためだった。
ホームページもすぐに運営を停止され、記事は全て削除された。「少なくとも歌はある」と題されたこの特集も、今ではもう読むことはできない。

皮肉なものだと思った。
メディアも消え、記事も消え、ほんとうに歌だけが残ったのだ。

香港の音楽シーンが久しぶりに盛り上がったと言われても、日本の読者の多くはピンとこないだろうと思う。今日の日本において、香港の芸能業界が注目を集める機会はほとんどないからだ。

昨今の香港の政治情勢については、わざわざ私が解説するまでもなく、多くの人がすでに詳しく知っているだろう。すこし前までは、よほどの香港通でしか聞いたことがなかったであろう「ジョシュア・ウォン」や「周庭」といった活動家の名前も、今ではごく一般的になった。ただ、彼らと同世代の歌手やタレントの名前を挙げられる人がどれほどいるだろうか。

それもしかたのないことだとも思う。私もかつては似たようなものだった。

今でこそ香港文化を研究し、香港のポピュラー音楽についての論文も書いているが、研究をはじめる前は、私も正直言って、香港の芸能人といえばジャッキー・チェンかアグネス・チャンくらいしか聞いたことがなかった。

1990年代生まれの私が物心つく頃には、香港のエンタメが日本や世界で注目された時期はとうにすぎていて、テレビや雑誌で先述のふたり以外の香港の芸能人を目にした記憶はない(そのふたりについても本人よりもモノマネを見る機会の方が多かったかもしれない)。

雨傘運動の起こった2014年ごろから本格的に香港を研究するようになってはじめて、かつてはBeyondやレスリー・チャン、フェイ・ウォンといったスターが活躍し、日本でも一定の注目を集めていたことを知った。

そういった過去のアーティストたちの名曲を発掘して聴くようにもなったが、それでも同時代の歌にはあまり興味が持てなかった。いいなと思う曲や、惹かれる歌手もたまにはいたが、全体的にパッとしない印象は拭えなかった。

たぶん私と同世代の香港人の経験も似たようなものだったのだろうと思う。
せっかく好きになった歌手や曲について話をしても、たいてい彼らは知らないか、あるいは単に「好きではない」と言った。音楽評論に目をやれば「カントポップはもう死んだ」と言って憚らない業界人や音楽通も多くいた。

私の時代の香港には、スターがいなかった。

香港の音楽シーンがそんな状況になってしまったのには、いくつかの理由が指摘されている*1。ある学者は、カラオケの流行により、似たような曲調のセンチメンタルなバラードばかりが作られるようになり、マンネリ化が進んだため、香港のポップスが飽きられてしまったからだ、と言う。韓国のK-POPや、台湾や大陸の標準中国語ポップスなど、他地域の芸能産業の台頭により、そちらに流れる若者が増えたためだとも言われる。インターネットの普及により、マスメディアの影響力が低下し、嗜好が細分化したことが原因だとする指摘もある。

香港の政治問題も、音楽の聴取に影を落としていた。

 

*1 カントポップの盛衰の歴史は、Chu Yiu-Wai, Hong Kong Cantopop: A Concise History, Hong Kong: Hong Kong University Pressに詳しい。


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