難以言喻的香港生活所思 ―香港の現在、言うに言われぬ思い-
番外編 歌は消えない -暗い時代の香港ポップス-
小栗宏太
(つづき)
この「カントポップの復活」はなぜ起きたのだろうか。
否定的な要因も思いつく。
コロナ禍の影響で、海外アーティストの来港が困難になったから、「代替物」として香港のアーティストに注目が集まったのではないかとか、あるいは政治弾圧が進む中で、香港の人々が天性の変わり身の早さを発揮して、政治から目を背け個人的な活動に勤しむ以前の状態に戻ったからではないかとか。
特に後者のような政治弾圧の影響に関しては、ないとは言えないだろうとも思う。
誰もがある程度の政治的沈黙を強いられることになった今日の香港では、アーティストたちの政治的沈黙ももはや目立たない。そして、たとえば気の滅入るような社会状況に嫌気がさした人々が娯楽の世界に逃げ込んだとして、それを責める権利が誰にあるだろうとも思う。
一方で、この流行現象を民主化運動のある種の延長として解釈することも可能である*9 。 例えば、去年の3月には、国家安全維持法違反容疑で勾留中の民主派活動家、何桂藍(グウィネス・ホー)が、代理人を通じて自身のSNSにこんな投稿をし、注目を集めた。
「今日、Mirrorの新しい歌『Warrior』を聞いた。拘留されてずいぶん立つけど、初めて泣いた。声も抑えられないほど。その通りだ。『最悪でも死ぬだけ 逃げたりはしない』」
MIRRORの『WARRIOR』は、戦士のように戦い、新天地を切り開く意気込みを歌う歌だが、直接的な政治情勢を扱ったものではない。だが、彼女はここで歌われる戦いを、彼女自身の民主を求める戦いに引きつけて解釈している。
“最悪でも死ぬだけ 逃げたりはしない
意志の力を武器に 滴る汗を武器に
新しい声だ 集中攻撃を浴びる準備はOK
威風堂々と迎えよう 次の新しい一世紀
騒がしくなれば勝機あり
静まりかえれば退屈だ
意志の力があれば 凡人でも空を飛べる
関門も変人も乗り越え 抱き合って
新しい血で切り開く新天地” (作詞:林若寧)
MIRRORをはじめ、カントポップの歌手たちが歌うポップスの歌詞は、多くは抽象的で、現実とのつながりをさほど感じさせないものだが、だからこそ多様な解釈に開かれている。2021年に流行った抽象的なポップスの中には、こんな風にリスナーそれぞれの「言葉にならない」思いを代弁するような歌もあったはずだ。
実際、この年のヒットソングの中には、名に暗に香港の社会情勢をほのめかすような歌詞を持つものも多くあった。一つは、本連載の倉田明子の文章でも取り上げられていたMC $ohoとKidNeyを名乗る二人組ラッパーによる『係咁先啦』(それじゃあ、またな)である*10 。
パーティ会場を離れるべきか、残るべきか迷う人の気持ちを扱ったコミカルな歌のようでありながら、その実、香港を離れて移民するかどうか逡巡する人の複雑な心情を歌っている。
MC $oHo & KidNey -係咁先啦 ft. Kayan9896
“俺もう行くわ それじゃあな また遊ぼうな
さようなら それじゃあな また今度な
俺もう行くわ それじゃあな また遊ぼうな
さようなら それじゃあな また今度な 今度があれば、な” (作詞: MC $oHo)
他にも、男性ボーカルグループ、C AllStarが2021年4月に発表した『留下來的人』(残ると決めた人)は、去りゆく人々を見送る複雑な心情を歌っていた。
“多くの人が信じてる 離れていく者は
人生を歩みの中で 去るべき時が来たから
心を痛めながら別れを告げるのだと
ならば残る者と生まれ変わる者は
それでもこちら側で
どう乗り越えればいいのだろう
残りの人生の厄災を” (作詞:曰云)
*9 阿栗(小栗宏太)「青い鏡と黄色い鏡:Mirrorと(脱)政治」
*10 倉田明子「香港、抗う人びとの歌 2」。この歌については阿栗(小栗宏太)「それじゃあ、またな:表現の不自由と社会風刺」 においても詳細に取り上げている。
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