春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート
ここまでの歩み 編 – その5 –
難病のミトコンドリア病をもつ僕の娘、響の高校の入学式の光景から始めた連載「春 待つ こころ」。その思春期のノートを記していく前に、彼女が人々の間で、これまでどのように生きてきたのか、知っていただきたい。生まれてから4歳近くでようやく立って歩き出すまでのことは、『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』(2006年、集英社新書)にある。これは、2005年7月4日から9月30日までの「東京新聞」「中日新聞」夕刊連載「歩くように 話すように 響くように」がもとになっている。
その翌年の同紙連載、「続・歩くように 話すように 響くように」(2006年3月20日~6月10 日)全64回をここに再録していく。「ここまでの歩み編」その5は、新聞連載第14~16回。
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響の幼稚園を求めて 1
すぐに返事をくれたのは、新宿区にある「おおや幼稚園」。見に来てください、ということだったので、勇んで出かけた。
園長先生は、「何も問題はない」という受け止め方で、ただ、「保育園より幼稚園の方が感染の機会が少ないとは、必ずしも言えないと思います。熱のある子が、やっぱり来てしまったりしますから」とおっしゃった。
帰り道、受け入れてくれると言うのならすぐ決めちゃってもいいのかな、くらいに舞い上がっていたが、冷静に考えるといくつか問題点はあった。
まず、おおや幼稚園は行政の補助を受けていない(干渉もあるので)ということだったが、そうすると、響に補助員さんをつけてもらうことはできそうもない。それと、園庭はコンクリートだし、園舎も構造上、太いコンクリートの柱が多く、歩行の不安定な響はきっと転んで頭をぶつけるだろう。まあ、まだ一園しか訪ねていないのだから、いろいろ見てから考えよう、と連れ合いと話し合った。
それ以降、ぽつ、ぽつ、と来る返事は、「会ってご相談したいと思います」「申し訳ないがお受けできない」など、いろいろだったが、「お受けできない」の方が多かった。
その中には、苦悩を滲ませた手紙もあった。
豊島区の草苑幼稚園の太田満喜園長先生は、たまたま東京新聞を取っていたのだが、仕事を終えて帰っても雑務に追われ、夕刊を読む間もなく倒れ込むように眠る、という毎日だったそうだ。今回の僕らの手紙を読んで古い新聞の山から去年のこの連載を探しだし、園のスタッフたちと共に読んでくださったという。
だが、響のための補助員さんをお願いする経済的余裕がなく、お迎えすることができない、と僕ら両親への労い、去年の連載で見た響の「笑顔の輝き」にも言及しながら、便箋6枚に及ぶ心のこもったお手紙を下さった。
後で分かった話だが、障碍児のための補助員をつける場合、豊島区から補助される金額は年間(!)20万円少し。
それで人を雇え、と言われても、持ち出しになるのは当然だ。
この社会はお金の使いかたを間違えてるのじゃないか?と思わせる現実だ。
「続・歩くように 話すように 響くように」連載第14回より再録
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