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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅

ここまでの歩み 編  – その9 –

難病のミトコンドリア病をもつ僕の娘、響の高校入学式から始めた本連載。その彼女がこれまでどのように生きてきたのか、まず知っていただきたい。生まれてから4歳近くでようやく立って歩き出すまでのことは、2005年7月4日~9月30日「東京新聞」「中日新聞」夕刊連載「歩くように 話すように 響くように」、それを書籍化した『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』(2006年、集英社新書)にある。その翌年の同紙連載「続・歩くように 話すように 響くように」(2006年3月20日~6月10 日)全64回を、「ここまでの歩み編」としてここに再録する。その9は、新聞連載の第29~32回(データ等は当時のものです)。

現在から振返るメモ「ずっと後に思ったこと・少し」を添えて。


29
陽子の思ったこと

響がいると夫婦で話す機会もなかなかないのだが、ちょっとした隙に、また訊いてみた。
──響の障碍がはっきりして来て、思ったことは?

「え? それまでと同じ。可愛いのは変わらないから」

──でも、将来の心配とかは、するでしょ。

「しない。今を楽しく幸せに過ごすしかないでしょう? でも、時々、患者の会のメーリングリストで、『10歳までは元気だったのに……』というようなメールを見ると、哀しい気持ちも紛れ込んでくるけど」「それと、店で、可愛い洋服とかおもちゃとか見ると、『いま買わないと一生後悔するかも』なんて思っちゃう瞬間もあるのよね。そういう点では、未来が見えない、という意識は底の方には隠れてる」

「だけどいずれにしろ、未来はいじれないでしょ? 響ちゃんが小学校、中学校に行ける場合を考えて、そのための貯金はしているけど、それ以外の、症状がどうなるか、とかの心配は、してもしょうがないから、してない」

連れ合いは、自分が20歳そこそこのころ、父が転落事故による頸椎損傷で全身不随の障碍者になった。その後、妹さんが膠原病のため車椅子生活に。僕と結婚して以後も、実母が、半年間続いたICU(集中治療室)での闘病の末亡くなった。その間彼女は、夜は病院の待合室の固いベンチで眠って、そこから会社へ通っていた。

──いつか君は嘆息して、「私の人生は人の世話ばかりしている人生だ」って言ったことがあったね。

「それは、響ちゃんに対しては全く思わない。あなたが散らかしたりするのの世話は大変だけど」

──あ、スミマセン。なんで響に対してはそう思わないの?

「可愛いから。癒やされるから」

──だけど響、言うこと聞かなくて大変だよね?

「私の言っていることは解っていると思うけど、響の不明瞭な発音を、私が理解できないためにひどいカンシャクをおこすのが、大変かなあ。それに、力がついてきたから、押さえつけてでもさせなきゃいけないことがある時は、体力的にきついよね。だから慢性的に疲れてる。でも、4歳児をもっているお母さんたちは、みんな疲れてると思うけどね」

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第29回より再録


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