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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅

ここまでの歩み 編  – その16-

難病のミトコンドリア病をもつ僕の娘、響の高校入学式から始めた本連載。その彼女がこれまでどのように生きてきたのか、まず知っていただきたい。生まれてから4歳近くでようやく立って歩き出すまでのことは、2005年7月4日~9月30日「東京新聞」「中日新聞」夕刊連載「歩くように 話すように 響くように」、それを書籍化した『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』(2006年、集英社新書)にある。その翌年の同紙連載「続・歩くように 話すように 響くように」(2006年3月20日~6月10 日)全64回を、「ここまでの歩み編」としてここに再録する。その16は、新聞連載の第57~60回(データ等は当時のものです)。


57

生者を駆動するもの ②

(承前)
杉野原郁哉さんの妻、香さんの答えは、やはり夫婦でもこんなに違うんだなあ、だからこそ支え合っていられるのかも? そう思わせるものだった。

「1歳で発症したとき、ミトコンドリア病ではないかと言われました。余命数年以内と知りました。 
脳症を起こしていた時点ですでに『助からないかも』と言われていたので、助かっただけでもラッキー。そこからの毎日=命はプレゼントされたものと思って感謝して過ごしていました」

「一家心中をした方が楽なのでは?」とさえ思い詰めた郁哉さんの言葉(第56回)とは、かなりちがう。

香さんは続ける。

「よく言われるように『何故うちの子が……』という気持ちは全くなく、そういう星の下に生まれた子であり、私はその親なんだとすんなり受けとめていました」

「病状が重くなったときにも、極力普段通りにしていました。もちろん注意は払っていましたが、周囲から見ても淡々としていたようです。
最後の入院の時も、亡くなる数時間前まで直樹の手を取り、思いつく限りの日常聴いていた歌を歌って聴かせていました」

そして直樹君が亡くなってからは、郁哉さんは「死ぬことばかり考えて」いた。けれど、香さんはそうではなかった。

「亡くなったときは『とうとう逝ってしまったんだなー』と思い『今までありがとうね』と声をかけました。亡くなったはずの直樹がニコッと笑顔をみせてくれたような気がしました」

家族を亡くされた(「ミトコンドリア病患者家族の会」の)会員に対しては、郁哉さんは「一緒に泣くことも大切だと思っています」と語り、新たな訃報を聞くと自分も眠れなくなるほどだと言ったが、香さんはこう書く。

「同じように『我が子を亡くす』体験をしても、そのことによる想いは全て共通ではなく共有できるわけでもありません。
残された家族は悲しいはずだと私は断定はしませんし、辛いという言葉にも必要以上に同調しないようにしています。一緒に泣いたりしないのは冷たいと思われることもあるかも知れませんが、いま現実に起きていることを認識して自分の中で気持ちを消化していくことは、どんな人にも必要だと思います。
むしろ『同じ』体験をしたことで『私はこうだった』と言わないように心掛けています。人によってはそれは『遺族とはこうあるべき』というふうに受けとめられてしまうかも知れませんから」

短い間ではあったが直樹君と暮らして知ったのは「平凡で淡々とした毎日の有り難さ」だという。

一緒に泣くのも大切だと思う人がいる。現実を認識していつか乗りこえていくほかはないと思う人もいる。どちらも遺された者にとって必要なことだ。
直樹君をめぐって杉野原夫妻は自然に、それぞれの役割を選び担っているようにも思える。

直樹君もまた、その家族の星座の中に今もいる。不在の星、その位置として。

不在の者は、不在と定まったことによる、空間の撓み(たわみ)のようなもの、音響のようなものを発している。生き残る者の暮らしの背景に、心の奥に、それはずっと聴こえている。
そのようにして、この世界を駆動している。

直樹君はいまどこに? という質問には、香さんはこう答えた。

「さぁ、どこでしょうね。どこだかわからないけれど自由にしているんじゃないでしょうか」

 

 

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第57回より再録


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